穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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玄理の扉 ―道の果てに至る場所―

 

 禍福はあざなえる縄の如しと世に云うが、鮎川義介にとって大正十二年という年は、まさにそれを体現した一ヶ年であったろう。


 まず六月に、長男が生まれた。


 鮎川夫妻の間には遡ること三年前、既に「春子」という長女が生まれていたから、これで一姫二太郎の理想を完全に果たしたこととなる。


 そうでなくとも家督を継ぎ得る男子の誕生、嬉しからぬはずがない。


「弥一」と名付けられたこの赤子こそ、後にMITに留学し、ベンチャー投資支援会社・テクノベンチャーを興すに至る、鮎川弥一その人である。


 ところが喜びも束の間のこと、三ヶ月後の九月一日に関東大震災が発生。


 帝都の大半を烏有に帰した未曾有の災禍。それに呼応したかの如く、鮎川自身も肺炎に倒れ、暫くの間生死の境を彷徨った。

 

 

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 家人の手厚い看護によってどうにか黄泉路を引き戻されはしたものの、半年以上は病床暮しを余儀なくされて、寝返りすら満足に打てぬ状態が続いたという。


 必然として、身体機能の低下が起る。使わなければ鈍るのだ。


 肺腑が漸く元の通りにガス交換を行うようになったとき、しかし鮎川の四肢はマネキンのそれにすげ替えられでもしたかの如く言うことを聞かなくなっており、彼をして


 ――これは本当に、おれの体か。


 と瞠目させるには十分だった。


 リハビリを行う必要がある。


 錆びついた関節にあぶらを差し、軋みを上げるもと・・を無くして円滑な回転を取り戻すのだ。

 


 そのために鮎川が目を付けたのが、空気銃という器具だった。

 


 空気銃といっても手軽にガスを注入し、BB弾を飛ばして遊ぶ、エアガンを連想してもらっては困る。ポンピングにより空気を溜めて、弾を一発込めたあと、引き金を落とし発射したなら再度ポンピングからやり直しという、エア・ライフルと呼ぶべきものだ。

 ドミトリー・グルホフスキーの小説を原作とする珠玉のシングルプレイ専用FPS『メトロ』シリーズをプレイした人ならあるいは理解は早いだろう。核戦争後のモスクワと、その一帯を舞台としたあのゲームには伝統的に、「ティハール」と呼ばれる加圧式武器が登場する。

 

 

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 レバーをせわしなく動かして空気を送り込むあの動作を、鮎川もまたしたわけだ。しかも画面越しの私と違い、彼の場合は現実に。


 四十路を越えて初めて触れたこの器具に、鮎川はたちまち夢中になった。庭先に的をしつらえて濫発すること、多い日には五百発に及んだというからただごとではない。彼の身体はみるみるうちに元の機能を回復させた。


 はじめこそ的にかすりもせず、遥か横手の障子紙に穴を穿ってばかりいたが、根がエンジニアの鮎川である。物事の理屈を究めることと、そこから一歩進んで得られた知見を実地に応用することにかけては玄人芸といっていい。


 都合二万発を撃ち終えるころにはある種のコツを体得し、ほとんど的を外すことがなくなった。構えもすっかり堂に入り、

 


 銃にも、人にも固有の癖がある。この癖に合せて、照準器の矯正がついで行われねばならぬ。(『百味箪笥』309頁)

 


 このようなことを言い出すに至っては、もはやいっぱしの射手と看做していいだろう。

 

 

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満州にて)

 


 本人もそう感じたらしく、とうとう野外に飛び出して、動く的――生きた鳥獣相手に弾丸を撃つようになる。


 ところがこれが、面白いほど当たらない。庭でやっていたのとは勝手が違う。何故当たらないのか、どうすれば射止めることが出来るのか、解を求めて鮎川義介の研究心は再び嚇と燃え上がった。


 ――要は、動的状態の中に静的状態と同様の働きを見出すことだ。


 このあたりまで来ると、鮎川の文章はどこか禅的な色調さえ帯びてくる。

 


 動いている雀も、庭さきの的と同じになる呼吸を会得しないといけない。
 的も、雀も、撃つ呼吸に違いはない。道はやはり同じだということは、功を積むと判ってくる。動かないと同じ境地に、自分を慣らさなければならぬ。三年、五年と、撓まずにやっていると、遂には、玄理の扉を開くことが出来る。かくて私は、動中の静を味う楽しみを満喫したのである。(312頁)

 


 どうであろう、なんとはなしに「剣禅一如」の香りがすまいか。


 何にでも「道」を見出したがる日本人の性情が躍如としている。


 果たせるかな、ついに「玄理の扉」をこじ開けてのけた鮎川は、宛然一個の猟師と化した。調子がよければ一日に百四十羽もの雀を仕留めることさえあったという。

 猟犬すら引き連れて、実に本格的にやったものだ。

 

 

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(左から二番目が長男弥一、右端が次男金次郎)

 


 ところがこの狩猟好みが、思わぬ椿事を招き寄せた。

 
 警察に拘束されてしまったのである。


 神社という、清浄を事とし穢れを嫌う神道施設の只中で、ムクドリを撃ち殺したことが原因だった。


 そう、鮎川義介が檻の中にぶち込まれたのは、巣鴨が初めてではなかったのだ。記念すべき第一回目の入牢劇について、次回は少しく掘り下げてみたい。

 

 

Metro2033 上

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