誰もが永遠に憧れる。
(『東方虹龍洞』より)
不老不死は人類最高の夢の一つだ。「それにしても一日でも長く生きたい、そして最後の瞬間まで筆を執りたい」。下村海南の慨嘆はまったく正しい。生きれるものなら二百年でも三百年でも生きてみたい。かてて加えて最後まで五体の駆動は滑らかで、他人の手を借りずとも、自分の始末は自分でつけれるようでありたい。
それが叶うのであれば、肉体の機械化、魂の電子化、何を厭うことやある。アーサー・C・クラークは、生命とは組織されたエネルギーだと道破した。パターンのみが重要で、それを織り成す物質がなんであろうとそんなことは些末だと。私もこれに同意する。
炭素への執着を超克してでも――永遠の命は欲するに足るものなのだ。
なればこそ、古今東西実に多くの養生法が開発されて試された。上手く要領を得たのもあれば、てんで的外れな方角へと突っ走り、笑うに笑えぬ悲劇に堕ちた例もある。
日産コンツェルン創業者、鮎川義介その人も、斯道を探りし一人であった。
(鮎川義介と尾崎咢堂)
膨大な体験に徴してか。老化に関して、鮎川は独自の見識を打ち立てている。
すなわち「老い」というのはすべからく、上から下へ――頭からやって来るということ。よってそれを防ぐには、単純明快、とにかく
彼はこれを実行に移した。
その甲斐あってかどうかは知らぬが、鮎川の頭脳が時として、異常なまでの「冴え」を見せたのは確かであった。
こんな話がある。
満州重工業開発会社総裁として、茫漠たる大陸の曠野に辣腕をふるい、国家建設にいそしんでいた昭和十年代のこと。常人ならばもうそれだけで手一杯になりそうな激務の中でも、鮎川は背後のことを忘れなかった。
僅かな時間を見つけては日本内地に残してきた日産系の施設を訪問、稼働状況を視察して、「こっちは儲かる、あっちは駄目だ」と見通しを立てたりしていたという。
日産自動車吉原工場もまた、その洗礼を浴びせられた一つであった。
(鮎川義介作、「ヒマラヤのコンドル」)
鮎川の歩みは常に早い。久原房之助から「鮎川の走り小便」と揶揄されたほどすべての動作がキビキビしていて、容易に一ヶ所に留まらない。
その鮎川の両脚が、吉原工場の一角にて
「これは戸畑の鋳物ではないか」
いって、目尻を懐かし気に緩ませた。
鮎川が戸畑という以上、意味するところは一つしかない。
そう、戸畑鋳物株式会社。
アメリカにて修業を積んだ鮎川が、帰国後はじめて立ち上げた「自分の会社」。創業から暫くは苦労も多く、身の細るような思いもしたが、しかし却ってそれだけに、思い入れもまた強化されて
直ちにその場から人が走って、件の鋳物の造り手を探す。
あっという間に見つかった。
問い質すと、豈図らんや、確かに以前戸畑鋳物で働いていた職人である。
十数年前、やむにやまれぬ事情から戸畑を辞めて、以降というもの土佐へ行ったり何処ぞへ行ったり列島各地を転々と、ただ腕前を切り売りしながらどうにかこうにか喰い繋いできたという。
にも拘らず、
当然浮かぶべきこの疑念にも、鮎川はちゃんと答えを残してくれていた。「自分の頭の中は蜂の巣のようになって居る、従ってどんな多くの事柄が一時に出て来ようが、それを区別して整理して受入れているから、その処理も何等の混雑もなくできる」……。(『鮎川義介先生追悼録』262頁)
かくも周到な鮎川も、昭和四十二年二月十三日、八十六歳を砌とし、窓外の雪を眺めながらついに息をひきとった。
法号、仁光院殿徳誉義斎大居士。
十七日の葬儀には、三千人の参列者が詰めかけた。
ただ、鮎川がそれに満足したかは謎である。
なにしろ生前、病床の中から幾度も幾度も、折に触れては繰り返し、
「俺が死んでも葬式はするな」
と厳命していた人物だ。その意図について、令息鮎川金次郎氏は以下の如く推察している。
「死んでしまって、もう総てがおしまいだ」と思いたくない。自分は永遠に生きているという感じを持ち続けたかったんだと思う(313頁)
何処々々までも、太い生き方を貫き通した漢であった。
その霊前に捧げられた弔歌を引いて、ひとまず本稿を閉じるとしよう。
雨雪瀌々天漸昏
可耐明星隕大地
玉川肅瑟弔英魂
宿痾久しく養う杏雲の門
雨雪瀌々として天ようやく昏からんとす
たゆべけんや明星大地におつ
玉川肅瑟として英魂を弔う
(衆議院議員・朝倉毎人)
春の宵
君が面影
偲びけり
建国の
礎となれ
とこしへに
君が名は
末代までも
かほるらむ
(作家・梅本誠一)
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