戦時中、鮎川義介が面倒を見ていた呑ん兵衛は、実のところ伊藤文吉のみでない。
今田
そう、日本きっての高級寿司店、「銀座久兵衛」の創業者たる彼である。
久兵衛は酒が好きで、コップ酒を側に置いて隙を見てはコイツを後向きでグイとやる、飲む程に酔う程に益々調子が乗って来る。時節柄客には最高二合の割当しかできなかったが、彼には制限しなかったので偶には越境したりした。だが佳境に入るほど腕は冴え、弁舌もさわやかに彼一流の迫真の諷刺を繰り出して客を驚かす。これは、彼を無言の座長にして、僕が知り合いの政財界のトップレベルに、盛んにフリー・トーキングをやらせたのが、いつの間にか彼を門前の小僧にした次第である。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』181頁)
今田寿治が秋田県から遥々東京へと上ってきたのは、昭和初年の出来事という。
以来、寿司一筋に生きてきた。
木挽町の「美寿司」という店で十年修業し、その後独立。独立までこれだけの日時を要したのは日本の職人社会にありがちな非効率性ゆえでなく、主に寿治が酒好きで、
「宵越しの銭は持たねえ主義だ」
そう吹いて、いなせに肩で風を切り、毎晩のように呑み歩いていたことに因る。
江戸
実際問題、寿治をして「玉川の水で産湯を使った」クチであると信じ込んでいた手合いというのは数多く、この点鮎川義介に於いても、
その挙措とか手際とか、客のあしらい方などをみていると、久兵衛こと今田寿治は、生ッ粋の江戸ッ子として誰も怪しまない。ところが実は秋田県の産なのである。(179頁)
と、さも意外気に書いている。
今田寿治と鮎川義介。
この両雄の初邂逅は、久兵衛が独立してまだ間もない、昭和十二年のことだったという。
当時、麹町三番町に居を構えていた鮎川義介。その邸宅にて園遊会を主催した際、招いた客に西園寺公一――「最後の元老」西園寺公望の孫に相当――が居たのだが、この西園寺が、久兵衛のパトロンに他ならなかった。
名を売らせてやろうとの親切心ゆえだろう。特に薦めて、園遊会に久兵衛を呼ばせた西園寺。果たして彼の目論見通り、鮎川はこの寿司職人にいたく惚れ込むことになる。
やがてゾルゲ事件が勃発し、少なからぬ情報をソ連に流していたことがバレてしまった西園寺。禁固一年六ヶ月、執行猶予二年の判決を下された挙句、爵位継承権すら剥奪された彼にはもはや、久兵衛のパトロンたるの余力などない。
今田寿治は宙に放り出されたような格好になった。
庇護を失ったばかりではない。逮捕される直前、西園寺は海軍の推薦で南方の司令官職が既に半ば内定しており、いざ赴任の暁には寿治を同行させる所存であった。
――そのための準備をしておいてくれ。
こう言われては、嫌と言えようはずもない。
既に店も他人に譲り、用意は万事整えた。一声かかれば、即座に出立可能な態勢にある。
にも拘らず、なんということであろう、彼に
この時ばかりは、さしもの寿治も途方に暮れた。
が、捨てる神あれば拾う神あり。どん詰まりの窮状を、鮎川義介がぶち破る。
当時彼は兵役に関係はなかったが、マゴマゴしていると徴用になり、あの手を汚すのは勿体ないと思って、北村洋二の主宰していた日産輸送飛行機会社の嘱託名義にして僕の紀尾井町の屋敷に住み込ませることにした。(180頁)
以来、寿治は敗戦までの数年間、この屋敷で政財界人を相手取り、得意の腕前をふるい続けた。
タネは鮎川が日水系列より引っ張ってこられるから問題ない。困ったのは、むしろシャリの方である。寿治は妥協を許さぬ男で、
「庄内産でなければ、握るわけにはいきませぬ」
と頑固に主張し、ついにはみずから現地に赴き、米を掻き集めることまでやった。
むろん、闇米以外のなにものでもない。
帰路の途中で手入れを食らい、ひどい目に遭わされたのも一度や二度でないという。
しかし彼はへこたれなかった。
懲りずに庄内米にこだわり続け、満を持して握った寿司は、確かに絶品としかいいようがない出来だった。後に巣鴨プリズンにぶち込まれたA級戦犯のほとんど全部がこの味を堪能済みであり、運動などで顔を合わせるたびごとに、
「あの味を思い出すと、なんともたまらんのう」
懐かしがってやまなかったとのことだ。
残れる寿司の
香りかな
鮎川自身、このような歌をつくって追憶に耽った形跡がある。
鮎川といい寿治といい、なかなか並の人生を送っていない。波乱万丈、名状し難いものがある。
そうした苦難を人の縁と持ち前の骨太とで乗り切ってゆくところに、この漢たちの魅力はあり、翻っては一代にして己が牙城を築き上げた由縁もまた存するのだろう。
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