朝倉毎人が詠うところの「秘術」を求め、北米大陸に渡った鮎川義介。
来着早々、彼はここでも日露戦争の齎した波紋を実感せずにはいられなかった。
なにせ、行き交うアメリカ人というアメリカ人が、みな大日本帝国を知っている。
知識人はともかくとして、ほんの数年前までは、日本などどこにあるかという顔をして、せいぜいが支那の属州か何かとしか考えていなかったごく一般的な市民までもが、だ。戦争に勝てば世界が認めてくれるというのは、確かにある種の真理であろう。鮎川が身を寄せた工場の労働者とて例外でなく、
――こんな小さな
奇異のまなこを隠そうともせず、興味津々に見つめるばかり。
中にはもっと無遠慮な性格のやつもいて、鮎川の腕をチョイチョイつまみ、
――日本にはジュードーとかいう、不思議な技があるそうじゃねえか。
どれ、ひとつ見せてみろやと焚きつける始末。
(Wikipediaより、柔道)
珍獣の扱いといっていい。
売り言葉に買い言葉、「武」はみせびらかすためのものでないと君子面して流すには、鮎川義介、若すぎた。
まんざら軽率な判断でもない。
ここらでただの珍獣にあらじと、尊敬に値する「男」なりとの認識を確立しておかなくば、それこそ面白くない事態に至ろう。幸い、と言うべきか。士族の家に生れただけのことはあり、武芸は人並み以上にたしなんでいる。
よし、いいだろうと腕まくりして屹立した。
同僚の中から図体の大きさに神経のめぐりが伴っていない、「大男総身に知恵が回りかね」の権化みたようなのを相手役に指名して、足払いで転ばせる。
小気味いいほど綺麗に決まった。
衆人環視の緊張をものともせず、常の通りに技を仕掛けられたのを、鮎川は内心喜んだ。ここ一番に強い、己はやはり、期待を託すに足る器だ。
(明治三十八年、下宿先の米人家族と)
が、周囲の興奮はそれどころではない。
一回りどころか二回り以上も小さな身体で、見上げるような大男をあっさり地面に倒してのける。なんという不思議な術理であろう。この民族が大ロシア帝国を打ち破ってのけたのは、やはり奇跡でも偶然でもなかったのだ。……
この「演武」以後、鮎川義介の勇名はとみに上がった。
時々村の集会に招ばれて柔道の講釈や、日露戦争の裏話など、休日に字引をひき作文したのを読み上げたものである。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』28頁)
ながったらしい理屈は要らない、強い奴は尊敬される。ストロング・イズ・ビューティフル。男など、そんな単純ないきものだ。
二十世紀アメリカのような社会に於いて、この傾向は一段と強かったことだろう。
そうして居心地のよい環境を獲得した鮎川だったが、ただ一つだけ、どうしても彼が閉口したことがある。
職場の共同便所の粗悪さだった。
いや、日本人の感性からしてみれば、果たしてこれを「便所」と呼んでいいのかすら、どうか。工場の裏手に、間仕切りもなく、一本の鉄棒が腰の高さに据え付けられているだけなのである。
電線に止まったツバメのように六、七人も仲よくこれに腰をかけて、用を足すのである。マドロス・パイプなどくゆらせながら陽気にやっている。しきりにワイ談を交わしているらしい、秀逸なのを持ち出すとドッと喊声を挙げるが、僕にはよく分からなかった。(29頁)
やや尾籠な話になって恐縮だが、「連れション」ならぬ「連れ便」というわけである。
文明国アメリカといえど、田舎を覗けばまだまだこの程度のものだった。
(なんということだ)
精神に多大な衝撃を受ける鮎川義介。
それでも「郷に入っては郷に従え」の教えを奉じ、仲間たちに倣おうとする。
健気な努力と言っていい。
ところがここで、思いもよらぬ問題が。
鉄棒はアメリカ人男性が腰掛けることを想定して設置されているのである。人種的にずっと矮躯な鮎川にとり、それはあまりに高すぎた。
(これはいかぬ)
腰をかけると爪先が地面まで届かない。ぷらぷらと、宙に浮かんでしまう。
器械体操じゃあるまいし、こんな不安定な体勢で、バランスをとりながら用をたすなど不可能だ。感情というより、鮎川の生理がそれを拒んだ。
とうとう上司に掛け合って、僕だけ事務所の水洗を使わせて貰うようになって助かった。(同上)
(明治三十九年、ギーリー職長の家族とともに)
このような「特例」が認められつつ、しかも周囲との確執が起きないあたり、やはり鮎川には人徳というか、人を惹き付けて離さない、ある種のカリスマがあったのだろう。
日産コンツェルンの牙城を築き上げたのも納得である。
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