穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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鮎川義介、危機一髪 ―日比谷焼打ち事件の火の粉―

 

 歴史を揺るがす大事件に、なにかと際会しがちな人物だ。


 鮎川義介のことである。


 日比谷が焼けた現場にも、この人はいた。最前列で見物していた。


 ポーツマス条約の内容が報道されてからこっち、


 ――こんな馬鹿な条件があるか、屈辱もまた甚だしい。
 ――十万の英霊も泣いていようぞ。


 あれほどの血を流したにも拘らず、得るところがあまりに少ないということで高まり続けた国民の不満。種物のように膨らみきったその物体は、明治三十八年九月五日日比谷公園で開催された国民大会を契機とし、ついに文字通り火を噴いた。

 
 暴徒と化した群衆は、官邸や国民新聞社、交番などに火を放ち、帝都の夜空を朱に染める。百年後の歴史教科書にまで掲載される大騒擾、「日比谷焼打ち事件」のはじまりだった。


 なお、修羅の巷と化した内地に反して、未だ戦野に展開中の陸軍将兵一同は実に静粛そのものであり、節度を保ちきっていたことを、多門二郎の『征露の凱歌』が報告している。

 


 九月一日頃の新聞が到着した、今回の平和条約で日本の譲歩に就て国民憤慨の声盛なりとのことを知った、軍人は至極静粛である、即ち軍人の天職は大命によって戦ふあるのみであるから……(『征露の凱歌』599頁)

 

 

Hibiya Incendiary Incident2

 (Wikipediaより、日比谷焼打ち事件)

 


 鮎川自身は、この馬鹿騒ぎに参画した気配はない。


 井上馨の屋敷に起居し、この大叔父が日露戦争貫徹のため債券募集に如何に苦慮して奔走したか、つぶさに眺めた鮎川だ。ただ意気だけで「条約破棄、戦争継続」を絶叫するのがどれほどの愚か、悟れぬような盆暗ではとても後年、日産コンツェルンを興すことなどできなかったことだろう。


 ただまあ、それはそれとして。


 鮎川義介、このとき未だ二十六歳。


「君子危うきに近寄らず」など、薬にしたくもない年齢だ。


 男の血がもっとも熱を帯びる頃合いであり、目と鼻の先でこれほどの大騒ぎが起っているにも拘らず、我関せずと独り澄まして森閑と書見に耽るには、彼はあまりに若すぎた。


 端的に言うなら、野次馬根性の命ずるままに、鮎川は現場へ駈けつけた。


 祭囃子につりこまれ、玄関を駈けだす小学生と本質的には変わらない。神社の境内で空気銃をぶっぱなし「お縄」になった一件といい、この男には明らかに、そういうオッチョコチョイな部分がある。

 

 

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(井上邸にて、明治三十八年撮影)

 


 まあ、それがある種の愛嬌となり、人徳にもなっているのだから一概に欠点とも言い切れまいが。三島由紀夫の指摘した通り、完全無欠の人間ほど愛しにくいモノはないのだ。

 


 日比谷公園の東角の裏手に石垣がある。そこが少し小高くなって、大きな榎があるだろう。あのあたりに、昨日につづいて今日も国民大会というので群衆が身動きもできないほどつめかけている。日ももうとっぷりと暮れていた。交差点のところに電車がたくさん止まっている。そこへ襷がけ、ハッピ姿の暴徒が十人ばかり乗り出してきて、ボロ切れに石油をかけて電車に火をつけて廻る。電車がパァーッと燃え上がる。すると今の日活会館のあたりから警官の抜刀隊が五、六十人も現れてきた。折からの月光に白刃がきらめいて実に凄愴そのものであった。(『鮎川義介随筆集 百味箪笥』51頁)

 


 舞い散る火の粉、きらめく白刃、充満する叫喚、血の匂い――。


 合戦の様相そのままである。そして戦争に、見物席などないものだ。


 鮎川ふくむ野次馬連も、間もなくその狂瀾怒濤の大波を、等しく被る破目となる。

 


 暴徒は追われるままにわれわれ群衆の中に逃げ込んでくる。抜刀隊は暴徒も群衆も見さかいなく切りつける。そのうちに僕のうしろにいたやつが肩をやられて悲鳴をあげた。いよいよ僕の番だと思って逃げようとしたが身動きもできない。頭をやられてはかなわんので、前のやつのまたぐらに首を突っ込んで両足を握って、今切られるか、今やられるかと観念していたんだ。そうすると、急に耳がジーンと鳴りだした。結局僕は切られずにすんだが、隣近所の被害者はかなりあったようだ。(同上)

 


 そういえば井上馨も若い時分は狂信的な攘夷主義者につけ狙われて、とうとう全身を膾切りに切り刻まれる憂き目をみている。縫合数は、都合五十針にも及んだとか。


 幸い鮎川の方は未遂に終わりはしたものの、等しく白刃の恐怖に晒された点、なにやら数奇な因縁めいたものを感じずにはいられない。


 この一件から二ヶ月後の十一月十六日鮎川義介は日本を離れ、北米大陸の片田舎の工場に一職工として潜り込み、丹念に経験を積んでいる。

 

 

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(結婚式当日、大正二年撮影)

 

 

慨時論議辨風生
知是経綸発至誠
夙試遠游修秘術
還営鋳造博令名
乾坤大業丈夫志
翰墨従娯老士情
想見祥雲繞君屋
七旬献寿挙霞觥

 

時を慨し議を論するや辨風を生ず
知るこれが経綸は至誠より発す
夙に遠游を試み秘術を修め
還りて鋳造を営み令名を博す
乾坤の大業は丈夫の志
翰墨の従娯は老士の情
想い見る祥雲君の屋をめぐり
七旬寿を献して霞觥を挙ぐ

 


 遥かな後年、朝倉毎人に斯く歌われた「遠游」の時期の幕明けだった。

 

 

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