この写真が撮られたのは、昭和十九年十月十五日、鮎川義介の屋敷に於いて。
絶対防衛圏と定めたマリアナ諸島が、しかしながらアメリカ軍の猛攻に次々破られ、日本の敗色、もはや覆うべくもなくなった、戦争末期の一コマである。
僕は当時内閣の顧問をしていたから、政府の高官連中の苦悩の程は察するに余りあった。そこで、一夕連中を当時紀尾井町の拙宅(現在玉川に移築保存)に招いて、日ごろの労をねぎらう意味でご馳走したことがある。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』176頁)
その「ご馳走」の席に招かれた面々というわけだ。
左端から順々に名を挙げてゆくと、
の計十三名。
錚々たる顔ぶれといっていい。
現役の内閣総理大臣に外務大臣、海相に宮内大臣と、日本を動かす男ども、その大半がずらりと並ぶ。
(Wikipediaより、小磯内閣)
この「豪華メンバー」をもてなすべく腕をふるうは、もちろん初代銀座久兵衛、今田寿治その人である。
彼の力量を遺憾なく発揮させるため、鮎川も骨折りを厭わなかった。日水社員を総動員し、北は函館東は勿来、西は松江に南は別府に至るまで、算盤勘定を度外視して良質なタネを掻き集めさせたものという。
そんな苦労が効を奏して一同大いに飲みかつ食った。
顔触れから見ると、毎日毎日敗け戦さの対策に力尽きて青いき吐いきの姿だったが、この時ばかりは喰道楽に終始して、敗戦の苦悩から解放された一駒であったのを忘れる事ができない。(178頁)
(鮎川義介作、ひらめ)
十月十五日以外にも、戦時中の鮎川邸には政財界の要人が集い、様々な悲喜劇を演じていった。
「爆弾の降りそそぐ空襲下でも、米内光政が平然と寿司を喰っていた」というかの有名なエピソードも、どうやらこの屋根の下で生まれたらしい。
鮎川自身、その瞬間に居合わせた。
宴たけなわになって主客陶然としていた折柄突然空襲警報が鳴った。一同箸を投げ先を争って防空壕に飛び込んだ。然るに海相の米内光政が独り頑張り「どうせ何時かは死ぬんだ。うまいものは今の内だからノオ」といって且つ飲み且つ喰い、尽くるところを知らない。
久兵衛、引込みがつかず、差しでお相手をしておると「お前は見所があるぞ」と讃められたには恐れ入ったという。(181~182頁)
普通人なら恐怖で舌が綿に化したようになり、味の判別など到底不可能に追い込まれように、落ち着き払ったこの気色、尋常一様の神経ではない。
客の手前とは言い条、逃げ出さない久兵衛もまた久兵衛だ。きっと彼のこういうところが、「生粋の江戸っ子」と誤認された基であろう。
もっとも流石にこの時ばかりはよほど精神をすり減らしたものと見え、
「ただもう夢中で、何を握ったかも覚えていません」
と、鮎川相手に述懐している。
(Wikipediaより、米内光政)
ついでながら触れておくと、冒頭に掲げた面子のうち、戦後戦犯容疑を受けたのは、
の計八人と、実に半数を超えている。
巣鴨プリズンで合うたびごとに寿司の味を懐かしがったという噺にも、おのずから信憑性が増してくるというものだ。
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