ロシアの兵士は昔から、味方の負傷を喜んだ。
近場のやつが血煙あげてぶっ倒れれば、そいつを後送するために、きっと人手が割かれるからだ。ああ願わくば我こそが、光輝あふるるその任にあずかり賜らんことを。なんといっても合法的に前線を離れるチャンスである。祈らずにはいられまい。
(Wikipediaより、合衆国の衛生兵)
一人の負傷兵に対して五人も六人もくっついて行くのはザラであり、特にひどいケースになると、とっくに死体になっているのに敢えて気付かぬ
日露戦争に突入しても、その辺の機微は変わらない。
否、変わらぬどころか寧ろ拍車をかけている。たまらずクロパトキンが訓示を出した。日付からして沙河の会戦中である。
「戦闘未だ
負傷兵一人の後送に、健常な兵士九人が割かれる。
馬鹿馬鹿しい非能率、こんな所業をゆるしていては勝てる戦闘も勝てなくなろう。
「余は峻厳に命令す、須らく此の如き弊風を弾圧し、攻勢戦闘に於いては特定せる衛生勤務兵卒のほか傷者の運搬に従事すべからざることを励行すべし」
そりゃあクロパトキンもこういう禁令を発したくなる。
人の命の重さとやらがティッシュペーパーレベルにまで下落したソヴィエト連邦時代なら、サボタージュとして銃殺刑が妥当だろうが。どっこい政体は帝政だった。アカほど過激になりきれない段階では、これが精一杯だったのだろう。
(Wikipediaより、アレクセイ・クロパトキン。当時のロシア満洲軍総司令官)
ところで視点をぐるりと巡らし、わが皇軍に注目すると、こちらはこちらで凄まじい。
まず、撃たれても、それを報告したがらない。痛いともなんとも呻かずに、なるたけ負傷を隠そうとする。尉官どころか兵卒までもが
異様であった。とあるドイツの砲兵士官が日本兵を評するに、「勤皇愛国なる宗教の惑溺者」との言辞を用いた所以が見える。イギリスからの特派員、フランシス・マカラーが日本へ向かう船の上、たまたま居合わせた青年将校に面接し、「帰国し得る幸福」を祝したところ、
「私は少しも故国へ帰るのを喜んで居ません。何故って未だ戦争が終らないからです。私はこの
耐え難い侮辱を振り払いでもするかのように、決然と言い返される椿事もあった。
(第一軍、新橋駅の凱旋)
また広島では、傷病兵のうちの一人がその恢復を認められ、再び戦地に召集されて、雀躍りしている情景も見た。未だ包帯を巻いたままの同僚たちがその彼を、「学校の児童が休暇前に我が家へ帰ることを許された生徒を羨むような」、ほとんど秋波といっていい、たまらぬ視線で仰ぐのも。
諸々の経験からマカラーは、
「戦列に参加することを驚嘆すべき熱心で渇望する日本兵士の心裡には、日本軍大勝の一大秘訣が潜んで居るのである。日本の兵士は、彼等の最下級の輸卒や、軍役人夫に至るまで勝利を得ることに熱狂して居る。然るに、一方のロシア兵は一般に勝敗に無頓らしく見えたものだ」
このような観察を表明している。
更に続けて、
「然しながら私は、日本人が今日の全盛を
『成功は、人を倦怠に誘ふものである』『智識は、人に幻妄を齎すものである』時の流に
ある種の危惧を書き添えるのを忘れなかった。
盛りを前にその凋落を想うのは、如何にもバランス感覚に富んだ英人らしくて好ましい。
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