穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

水のほとりの旧き神


 一説に曰く、大津おおづ大水おおずであるという。


 現今でこそ熊本県菊池郡大津町として人口三万五千人、天高くして地は干され、交通四通八達し、道の駅には特産物たるサツマイモの加工品がずらりと並び、駅前にでんと鎮座するイオンモールが日々の暮らしを支え彩り潤して――まあ要するに、ほどよく田舎でほどよく便利な発達ぶりを呈しているが。


 遠い遠い神代のむかし、阿蘇の御山と熊本の市街まち中間あいだに位置するこの土地は、全く以って天一、際涯もない鏡の如き湖面であったそうである。

 

 

Michinoeki Ozu Kumamoto 2009

Wikipediaより、道の駅大津)

 


 むろん、あくまで伝説であり、地質学的・考古学的裏付けは皆無といって構わない。


 しかしながらこの「伝説」が一種特異な構成で、他ではちょっとみられない妙味を宿すものなのだ。


 朽ちさせるには些か惜しい。以下、拙筆なれどもその輪郭をなぞってみよう。


 まず、この湖は塩分濃度が非常に高い。一升の湖水を沸騰させれば四合の塩が採れたというから死海すらも凌駕している。迂闊に浸かろうものならば、さだめし皮膚に痒みを覚えたことだろう。そのくせ死海と異なって、水面下を覗いてみれば魚類の天国、ありとあらゆる種類のサカナが泰平楽な顔つきで悠々ヒレを波打たせているのだから堪らない。


「お前さんがた、浸透圧の問題はどう解決しているんだい」


 と尋ねても、


「あんた、そんな、重箱の隅を突っつくような、つまらん考えを起こすんじゃないよ」
「これだから乳しゃぶってる連中哺乳類というやつは」


 気にする方が不粋なのだと逆に説教を喰らいかねない雰囲気だ。


 それもそのはず、本当のところ、地球上のすべての魚類の故郷とは、この湖こそなのだから。

 

 

Dead Sea-18

Wikipediaより、死海沿岸)

 


 またべらぼうな大風呂敷をおっぴろげたものと思うが、さりとて「伝説」と銘打つ以上、これぐらいのスケールはあって然るべきだろう。


 とまれかくまれ水生生物の聖地に於いて、陸上生物の小知恵が通じるわけがない。それはそういうものなのだと受け容れるより他にない。


 あるいは湖のほとりに住まう神の御加護に帰してみるのもいいだろう。二柱ふたはしらの神がいた。片や全動物を支配する神、片や全植物を支配する神。どちらの神も名前を持たず、またカタチも曖昧である。従ってオノゴロ島の方々みたく、互いの姿を見合わせて、


「どうです、私の余っている部分と貴女の足りない部分とを接合させてみるというのは?」


 と、刺激的な事業に誘うこともない。


 なんだか妙なのが居やがらァ程度の認識で、かといって腕まくりして追い出しにかかるほど積極的にもなりきれず、とどのつまりは体よく無視して個々の権能に引き籠っている状態だった。


 ああ、日本の神様らしいと安心感がこみ上げる。

 

 

Kamitategamiiwa

Wikipediaより、上立神岩。天の御柱のモデルとも)

 


 より活発に働いたのは、獣類の神の方だった。


 否、活動的でありすぎた。粗製濫造も厭わずに次から次へと「作品」を創造しまくった挙句の果て、野にも山にも獣が満ちて収拾不能になっている。


 美しいピラミッド型の生態系など夢のまた夢、大量死の開始まで、あっという間のことだった。


「しまった、なんということだ」


 絵に描いたような崩壊過程といっていい。


 一連の事態を目の当たりにして、神様も流石に反省せざるを得なかった。これからは個体数にもちゃんと配慮した仕事をしよう。美しい国土に放つのは、本当に厳選された優良種たちのみでいい。……


 が、その前に、何はともあれ片付けである。見渡す限りの死体の山をどう処理するか。国中の火葬場をフル稼働させてみるとして、それでもいったい何日を、いや何週間を要すことやら。予測するだに気鬱になりそうな命題である。


「えい、面倒じゃ、こうしてくれる」


 神様はシンプルにやることにした。


 屍骸をごそっと掻き集め、掻き集めしては次々と、湖へ投げ込みだしたのだ。


 あきれ返る乱雑さ、こいつは本当に反省しているのかと疑いたくもなるだろう。


 案の定、魚たちが悲鳴を上げた。彼らもまた獣の神の被造物でありながら、うまいこと大量死を免れて武陵桃源の夢に耽っていたのだ。


 陸と水では、やはり色々勝手が違ってくるらしい。

 

 

忍野八海にて撮影)

 


 が、それも今日こんにちこの瞬間に終わりを告げた。水面みなもに集まり、パクパクと、救いを求めるかのように口を開閉させる魚群を神はじっくり観察し、特に優れた品種のみを掬い上げ、えっちらおっちら運んで行ってやがて海へとたどり着き、彼らをそっと放してやった。


 これは果たして慈悲であろうか? 真に当を得た措置か? 海があるならむしろそっちに死骸を棄てて、湖のことは放っておけばよさげなものを。あいや、否、いな、なにぶん神のなさること。きっと人智では及びもつかない深い思慮があったのだろう。そう言い聞かせることにする。


 懸念事項はなくなった。神様はいよいよ発奮し、大地の掃除にとりかかる。その終結の間際には、あれほどまでに果てしなかった湖がすっかり埋め立てられきって、だだっ広い野っ原へと化していたから驚きだ。


 獣の骸が素となった土である。


 当然ながら肥えている。


 植物の神は大喜びした。新たに誕生うまれたこの土地でなら、さだめしおれの愛し児たちも、立派に育つに違いない。


「さあ、根を張れ実れ世を満たせ。地上の真の支配者を証明すべきときは来た。天壌無窮てんじょうむきゅう宝祚之隆ほうそのさかえを謳うのだ」


 これまでの影の薄さはなんだったのかと訊きたくなるほど、精力的な活動だった。


 甲斐あって、このあたりではいついつまでも五穀の実り麗しく、豊作年など他所の国の十倍もの収穫が得られたためしもあったとか。

 

 

(豊穣神サクナヒメ様)

 


 ことほど左様に、繁栄とは流血伏屍あってこそ。


 高天原とも仏国土とも関わりのない、素朴な神の無邪気な残酷、しかしてその上に成立する「めでたしめでたし」。


 土着神話の魅力というのを網羅しきったものとして、大いに評価されていい。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ