穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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食肉はいやだ ―軍馬始末覚書―


 馬肉禁食会の発起は明治三十九年になる。


 越前福井の有力者、亀谷伊助が立ち上げ人だ。


 ココロザシ自体は正当だった。


 高潔とすらいっていい。日露戦争遂行のため、日本全国津々浦々から動員された軍馬たち。のべ十七万頭以上に及ぶ、乃木希典の言葉を借りれば「活動武器」の大群は、しかしいったんポーツマス講和条約成立するや、思わぬ悲運に見舞われた。

 

 

日露戦争、凱旋部隊)

 

 

 既に戦争が終わった以上、軍隊はその膨れ上がった図体を再び萎ませねばならぬ。


 凱旋早々、各師団にて多くの軍馬が競売にかけられる運びとなった。


 それだけならばべつにいい・・。目くじらを立てるに及ばない、ごくありきたりな展開である。


 ただ問題は、落札者のかなり多くを食肉業者が占めていたこと。


 もちろん彼らは競り落としたる軍馬うまどもを、有無を言わさず屠殺した。砲を挽き、糧を運び、人を乗せ――その背で以って祖国の勝利を支えたであろう功労者らを、用が済むなり殺して解体ばらして食肉にくにして、市場に卸して利益カネにした。

 

 

Horsemeat,Asahikawa-20160724

Wikipediaより、馬刺し)

 


 この事態を受け、


「なんということだ」


 と、誰一人として血相を変えなかったなら、それこそ我らは明治人の神経に深刻な疑義を抱かねばなるまい。


 幸いにして、亀谷がいた。


「彼の軍馬は軍人と共に満韓の野に馳駆し畜類とは云へ其の功多きに今や恙なく帰国すると共に忽ち屠殺して食膳に供するが如きは情に於て忍びざる所なり」――声を張り上げ、広く江湖に訴えてくれた人がいた。


 所産がすなわち馬肉禁食会である。


 繰り返し言おう、ココロザシは高潔だ。が、現実的な成果となると、これがあまり捗々しくない。率直に言ってあまり流行はやりはしなかった。社会を揺り動かすような、そういう一大ムーブメントには至っていない。


 原因は、明治人が一般に冷血気質と視るよりも、むしろ会の名前がいまひとつ適当を欠いていたのであろう。


「禁食会」ではサクラ肉を口にすること、馬食文化それ自体に挑戦しているように思える。戦功相応の待遇を軍馬に与える点にこそ会の目的が在るならば、「禁」の文字は避くべきだった。禁酒会とか禁煙会とか、そっち方面・・・・・の連中と同一視されても不思議ではない。


 要するに、意図と看板に若干のズレがあったのだ。


「軍馬顕彰会」とでも銘打てば、あるいは結果は違ったろうか。第一印象の重大さを、つくづく考えさせられる。

 

 

 


 日本に於いて軍馬表彰の制度が樹つのは昭和十四年以後のこと、日露戦争から三十年以上を俟たねばならず、それでやっと、漸くだった。


 制度の詳細に関しては、昭和十七年刊行の『馬』という書に特に詳しい。


 著者の名前は伊澤信一。負傷によって現役を退いた嘗ての陸軍軍人である。

 


 功章は次の三種類に区分されてゐる。
  甲功章(金鵄勲章に相当するもの)
  乙功章(旭日章に相当するもの)
  丙功章(瑞宝章に相当するもの)
 右の功章は金属製にして頭絡の額革中央に附けるものである、(中略)昭和十七年十月迄に表彰されたる名誉の軍馬は、合計一五七二頭で、其内訳は左の通りである。
  甲功章 三九九頭
  乙功章 八五二頭
  丙功章 三二一頭
(中略)これ等の功労軍馬は、軍役を果したる後には、神馬として奉仕し、或は乗用、農用、輓馬等それぞれ適当なる職場に於て働き、または牧場にて悠々たる生活をなす等、適当なる飼手に養はれて楽しく余生を送るものである。

 

 

(上から甲、乙、丙功章)

 


 もっとも仕組みが出来てから六年経たずで大日本帝国の軍組織自体が壊滅したため、上の功労軍馬らが、いったい真に「楽しく余生を送」れたかどうか、定かではない。


 なお、触れておくと、兵士としての著者伊澤の最後の戦場は、明治三十七年の、遼陽会戦こそだった。

 

 

 

 

 


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