「民主化教育」に名を借りた洗脳事業を抜かしては、シベリア抑留というものがまったく分からなくなってしまう。
捕虜にされた日本人将兵57万。
ソビエト連邦は単に彼らを都合のいい労働力としてこき使うにとどまらず、この中から一人でも多くの「革命戦士」を作り出そうと努力した。
躍起になったといっていい。単純な暴力は勿論のこと、「帰国」をエサに仲間を売らせ、相互不信の種を蒔き、あの手この手で日本軍の統制を布でも引き裂くようにズタズタにした。
文字通り、何でもしたのだ、共産主義者は。
そのおどろおどろしい実態については、「隼の特攻」でわずかに触れた、第十八野戦兵器廠チチハル本部詰め軍医、細川親文氏の報告が最も明快で理解しやすい。
抑留者の中には我々のように三〇歳をとっくに過ぎてしまった中年者も多いが、現役で入隊した二〇歳そこそこの兵隊もいる。これらの若い連中がいつの間にか収容所から消えてしまった。どこへ行ったのだろうと皆が気にかけていたところが、一年ほどしてまた帰って来た。ハバロフスクにある共産主義を教育する学校に入学して、みっちり勉強して洗脳されて来たのだ。(中略)これら若者を我々は指導者と呼んだ。(『シベリア抑留体験記』238頁)
この「指導者」どもの鼻息の荒さはたいへんなもので、帰還するなりそれまで部隊を統御していた下士官・将校をあっという間に蹴落として、収容所のイニシアチブを握ってしまった。
それで連中が何をしたか。
一日の労働を終えヘトヘトになった古参兵。疲弊しきった彼らの脳に、更に畳みかけでもするかのように、赤い思想の毒針を容赦なく刺し込んでいったのである。
一日中必ず一回は、学校で一夜漬けで教育された。自称共産学者たちの我々に対する教育が始まった。この教育は実に峻烈であり、一方的であった。少しでも反論すれば反動分子である。反動分子はいつまでもソ連に抑留して、もっと教育し、アクティブティにならねば帰国は許されないなどといわれていた。(239頁)
まんざら空疎な脅しではない。
「指導者」の背後にソビエト連邦政治部がある、その証拠を抑留者たちは幾度となく目撃してきた。彼らの発行する壁新聞――「天皇制打倒」だの「階級闘争」だの「人民」だのと、呪詛と毒素の塊めいたその物体の非を鳴らし、古事記をテーマに国体擁護の論をぶった元将校が、次の日には憲兵に連行されたこともある。両者は明らかに連絡を密にし、不穏分子を摘発していた。
こうなると息苦しさは尋常ではない。同じ日本人であるのが厄介だった。言語の壁の内側にいる相手には、生半可なおためごかしなど通じない。
自分の半分も生きていないような若僧相手に呼び捨てにされ、唯物論だの弁証法だの共産党史だのの御説法を垂らされるのは、屈辱以上に笑止なものであったろう。
それでも面従腹背する以外にない。さもなければただでさえ遠い帰国の夢が、本当に夢物語の彼方まですっ飛んでいってしまうのだ。
――表面だけの大根になれ、人参にはなるな。
そんな風に囁き合って、正気を保った兵士たちもいたという。
「解放者」ヨシフ・スターリンに感謝の寄せ書きを送るという精神的拷問にも、そうやってどうにか耐え抜いた。
◎財閥・軍閥により盲目的に隷属させられていた我々を、眠りから覚ましてくれたのは、偉大な同志スターリンである。
◎財閥・軍閥の反動と闘ってくれるのは、ソ同盟であり、今も日・米反動と闘っているのはソ同盟を盟主とする民主主義国家である。
◎ソ同盟は、労働者・農民の祖国であり、我々の牙城ソ同盟の強化のため全力を尽す。
この総決算として、スターリン大元帥に対する感謝状(絹の生地に金糸で刺繍した何千文字という膨大な物)の署名が、各収容所最大の行事として、町の劇場や公会堂で行われた。(236頁)
細川軍医の同僚に、宮川という人がいた。
軍医少佐の階級で、「早く日本に帰りたいなあ」と親しく語らう仲だったという。
この人は軍医学校の秀才で、それがゆえに持っていた「恩賜の銀時計」が問題になった。
ふとしたことからそれを見付けた「指導者」どもは、激昂のあまりほとんど発狂同然の姿を呈し、たちまち宮川少佐を「吊し上げ」にかけてしまった。
その内容に関しては、とても要約する気になれない。ちょと長いが、ぜひ原文のまま味わって欲しい。
日本は今アメリカに占領されている。日本の同胞はアメリカ人の奴隷になっているし、若い女性はアメリカ軍人の慰安婦となっているのだ。このようにしたのはだれか!“ひろひと”(天皇のこと)ではないか、その“ひろひと”からもらった時計を大切にしているとは何事だ。我々は祖国日本に帰るのではない、敵国に上陸するのだ。“我々の祖国ソ連万才!”などと言うのだから大変なことになる。またほんまかいな! とも思った。
宮川少佐も大衆の前で吊し上げにさせられ、少しでも足を崩すと、猛烈な弥次が飛んでくる。聞くに堪えない暴言で彼を容赦なく詰問する。多数の若い指導者連中が椅子に坐って膝を組みながら、楽な姿勢であるし、直立している一人に向って、しかも長時間吊し上げるのだから、やられるものは堪ったものでない。一層軍隊時代のビンタの方が遙かにましだったろう。宮川少佐は背の高い色白で、頭は少し薄かったが目鼻のはっきりしたなかなかの美男子だった。終った後で“あの時は一思いに死にたかった”と言って泣いていた。(240頁)
よくもまあ、ここまで効果的に残酷に、人の心を削り取る仕掛けを考えつけるものである。
のみならず実行に移し、常套化するに至っては、もはや唖然とする以外にない。
世界革命が妄言に終わって本当によかった。歴史は繰り返すと言われるが、こんな時代の再来だけは断固御免蒙りたい。
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