地獄の、悪夢の、絶望の、シベリア捕虜収容所でも朗らかさを失わぬ独軍兵士は以前に書いた。「我神と共にあり」と刻み込まれたバックルを身に着けお守り代わりとし、軍歌を高唱、整々として組織的統制をよく保ち、アカの邪悪な分断策にも決して毒されなかったと。
(ドイツ軍楽隊)
顧みるたび、げに清々しき眺めよと、感心せずにはいられない。
人間には、男には、たとえ
ドイツ人はそいつを持っていたらしい。
だからこそ獄中、転向し、ロシア人どもに媚びを売り、本来的な同胞兵士を叩き売る、
浅原正基という奴がいる。
もとを糾せば一介の上等兵に過ぎないが、こいつがまた、典型的な人の皮を被っただけの畜生で、敗戦、抑留、シベリア送りにされるや否や大急ぎで真っ赤に染まり、しかも彼の動機ときたら共産主義の理想に共鳴したからとかではまるでなく、ただひたすらに己一個の身の安全を保ちたいが為だけで、そういう烈しい自己保存の欲望に基盤を置いているだけに、主人の愛顧を得るためならば何をしでかすかわからない、不気味なものを持っていた。
事実として浅原は自分が如何に模範的な囚人か監視者たちに示すため、密告、中傷、吊し上げを濫用し、日本人を売って売って売りまくり、その「献身」の報酬として江戸時代の牢名主にも劣らない絶対的な権力を収容者の間にて確立させることとなる。
「シベリア天皇」の称号までをも克ち取った、そういう浅原の存在は、いつしか彼の地区ばかりでなく、何千キロも離れた先の収容所にまで響き渡ったようだった。
以下に示すは香川庄市なる姓名の抑留者の証言だ。
「私はノリリスク、バム沿線にいて、浅原一派に接したことはないが、昭和二十九年九月、バム沿線にいたとき浅原のことは外国人間でも知れ渡っていたと見えて、ドイツ、オーストリア人は私等に、『ハバロフスクには浅原という日本人のソバーカ(犬)がいるそうだ。もしわれわれの仲間にそんなソバーカがいたら、一日も生かしておけない。日本は、満洲で随分とソ連軍に痛められたときくが、痛められた上になおソ連の犬をするような日本人がいるから日本は負けたのだ』といわれたことがある」
(ノリリスクの位置)
(ハバロフスクの位置)
ごもっともとしか言いようがない。
あれだけ手ひどく敗れてもなお、「ハイルUSA」――
言葉の重みが違うのである。
(車上のヒトラー)
多くの日本人捕虜を凍土に死なせた浅原は、一九九六年、ほぼ世紀末まで永らえた。
ソヴィエト連邦の崩壊を、当然その網膜に焼きつけてから逝ったろう。
「歴史は我々および我々と同じように考えたすべてのものを敗訴させた」というエンゲルスの嘆息を、果たして想ったか、どうか。
べつに知りたくもないことだ。
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