一九一九年、敗戦直後のドイツに於いて、二人の男が自伝を世に著した。
一人はアルフレート・フォン・ティルピッツ。
もう一人はパウル・フォン・ヒンデンブルク。
どちらも名うての軍人であり、多分の英雄的側面をもつ。
ティルピッツに関しては、以前の記事でもわずかに触れた。グレート・ホワイト・フリートについて、派遣の真意をルーズベルトに直接問うた彼である。
その自伝の末尾に於いて、彼はこのように書いている。
我が希望をして来るべき時代に在らしめよ、我等は決して奴隷として生まれなかった、二千年間我が民族は再三興った、如何に完全に覆されても。
ヴェルサイユ条約の締結は、かつてのドイツの繁栄を完膚なきまでに破壊した。
「ドイツ人は、要するに二千万人ほど多過ぎる」とのクレマンソーの信念のもと、二度と再び足腰立たなくなるように、苛酷な処分が敗戦国に下された。
しかし、それでも。
そのどん底からドイツは再び立ち上がる、先祖たちがそうしたように、我らは必ず成し遂げるのだと、昂然たる気概のほどをティルピッツは述べている。
(Wikipediaより、ジョルジュ・クレマンソー)
これがヒンデンブルクになるともっと露骨で、
我が祖国の最大悲劇中に編まれた本書は、絶望の苦悶的重荷より出ておらぬ、私の凝視は確乎として前途に、外方に向けられている。
と序文に記し、更に末尾に至っては、
ドイツの偉大性を信じて斃れた人々の血は無益に注がれない、私は筆を措き、諸君に信頼する――青年ドイツ!
もはや迸出する感情を隠そうともしていない。
時代はだいぶ先に下るが、軍事心理学者のマックス・ジモナイトなぞも、第一次世界大戦中に記された膨大な数の手紙・日記・書簡類を精査して、
戦争は敗戦と雖も祝福を与えずにはおかない――これはドイツ人が既に経験した所である。ルネッサンスの場合と同じくそれは我々を無から出発することを余儀なくさせた。しかし、その結果我々は自己の本性に関する深い洞察に達し、生きんとする創造的意欲を呼び覚まされたのだ。
と、前二者と軌を一にする見解を発表したものだった。
これも「背後の一突き」論の賜物か、国内に敵を一歩も入れず、しかも破れた白昼夢的顛末の。いやはや不完全燃焼の厄介さよ、こうまでエネルギーが鬱屈するか――と思いながら眺めていると、豈図らんや、第二次世界大戦後にも似たようなエピソードが見つかったから堪らない。
ゲルマン魂への認識を、だいぶ改めなければならなくなった。
当時の住友生命社長、芦田泰三がドイツへ飛んだ際の出来事である。
ベルリンではタクシーをやとって市中をみて回った。この運転手がヒトラー治下のドイツを逃れて、南米に行っていたという青年で、流暢な英語で説明をしてくれた。その最も念入りだったのが普仏戦勝記念塔であった。これは高さ百米もあるもので、この上に金色の女神像がベルリンを見下ろしている。爆撃の跡片ずけもすまさぬうちに、百万円を投じて、きれいにぬりかえをしたというのだ。もちろんベルリン名物の一つでもあろうが、慌てて軍人の銅像を取りこわした日本人の心掛けとは、大へん異っているようだ。(『財人随想』)
「軍人の銅像」。橘中佐、広瀬中佐――。
なるほど確かに大東亜戦争に
赤軍によりああまで無惨に、徹底的に踏みにじられたベルリンで、いったい何処からこれだけのことをやれる気力が湧いてくるのか。
そういえばシベリア抑留を食らった人の話でも、
ドイツの将校から受けたゲルマン民族の印象は、言葉の発音に象徴されるように男性的な匂いがある。作業に出るときはスコップを肩に構え、“アイン、ツバイ、ドルアイ”の掛声と共に軍歌を高らかに歌って門を出て行く。一小節、一小節を区切る独特の軍歌。付き添うソ連兵と比べ、一体どちらが捕虜かと思ったほどである。いつだったか、私は一人のドイツ兵に言った。「我々には帰還の夢はない。恐らくこの地で死んでゆくだろう」と。若いドイツ兵はズボンのバンドを見せて笑っていた。バックルの中央に“我神と共にあり”と書かれていた。(『シベリア抑留体験記』)
ドイツ人はあくまで意気軒昂、溌溂たる印象を以って語られていたものだった。
「ハイルU.S.A」と叫ぶのを目撃した者もいる。これは最初、アメリカ万歳の意味かと思っていたらさにあらず、「Heil unsere serige Adorf」――「天にましますアドルフ・ヒトラー万歳」の意味で、二重に驚かされたとか。
見事としかいいようがない。さても清々しき漢たちよと手を打って礼讃したくなる。けなげというか、初志貫徹というか、こういう屈さず枉がりもしない強靭な精神の持ち主が、是非善悪を乗り越えてどうしようもなく私は好きだ。
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