「支那は日本と一〇年戦い、米国でさえ五年戦った。ソ連を見よ。宣戦布告からわずか三日で日本は降伏した。ソ連軍は世界一強く、ソ連人は世界で一番偉い人種である」(『シベリア抑留体験記』194頁)
奥地のとある収容所にて、赤軍兵士が抑留者たちに言い放った一言だ。
傲然と肩を聳やかし、胸張り通すそのありさまは、彼が本気で、心の底から自分自身の発言を信じきっているのだと、否が応にも察せられるものだった。
奇妙としかいいようがない。
戦争末期の、あの火事場泥棒的行動を、よくまあここまで誇らしげに語れるものだ。
恥知らずは生き易そうで羨ましい。
イルクーツク州、タイシェット近郊の収容所――近郊といっても、ゆうに50キロは離れているが――にぶち込まれていた萩野政門という人も、あるとき赤軍将校の口から以下の如き演説を浴びせかけられて、思わず耳を疑っている。
「この地域に来ている者は、ソ連軍が満洲に進入した時の第一交戦部隊の者ばかりだ。お前たちの仲間はソ連の軍人を戦死させた。お前たちはその償いだ。酷使して死なせても構わん」(同上)
なるほどこういう精神性であればこそ、ろくな食事も与えずに、氷点下四十度の寒風吹き荒ぶ日であろうとも捕虜を野外へ追い立てて、酷烈無惨な労働ノルマをわずかな躊躇も見せぬまま、課することが可能だったというわけだ。
気温が氷点下三十五度を下回る日は野外労働を禁ずるという条項があったはずだが、どの収容所でも当たり前に無視された。
所詮は建前に過ぎなかったということだろう。
だからこんな馬鹿な光景が生まれ出る。
零下三〇度以下の日の屋外の労働は、我々日本人にとって体験した者でなければ分らないだろう。常に死と対決した。或る日あまりの寒さに「今日一日は休ませてくれ」とソ連の将校に言ったことがある。将校が水を一杯入れたバケツを持って来て言った。「この水を空中に放り上げ、一瞬の内に氷となって落ちたら休ませてやる」。我々はこの日屋外の労働に従事した。(108頁)
東京裁判とシベリア抑留。
この二つほど日本国民をして「戦争に敗ければどうなるか」という現実を叩き込んだものはない。
しかしながら教材と呼ぶには、これはあまりに痛ましすぎる記憶であろう。
俘虜として作業現場の往復の道で、汚れ疲れて足の重い我々に、ソ連住民の若い者や子供たちが石を投げたり、体当たりしてきた。敗戦国民の悲哀を骨の髄まで味わった。(193頁)
なんという惨憺たる代償を支払わされたものであろうか。漫然と風化するに任せていい代物では断じてない。
ソ連よ、北方領土を返せないなら我々の青春を返してくれ。北方領土に対する代償は我々が命がけで支払ったものではなかったか。国のためあのシベリアで命を捧げた戦友とそこに青春を捨てた我々捕虜の、これは切なる願いである。(41頁)
満洲第一二二四部隊所属、長尾俊郎の文章だ。
顎が外れるほど同意したい。
シベリア抑留の記録というのは、読んでいて本当に絶句するというか、暗黒な気持ちが腹の底にとぐろを巻くのをどうしようもないものである。
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