穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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暗殺雑考 ―「今太閤」、伊藤博文―

 

 山縣有朋はその晩年、己が死期の接近をそれとなく悟るところがあったのだろう、頻りに往年を回顧しては、


「ああ、伊藤は羨ましい死に方をした」


 とこぼしたと云う。


 大日本帝国海事法学の創始者松波仁一郎の証言である。1899年に開催されたロンドン万国海法会議に於いては副議長の大役を務め、その後も内閣法律顧問に納まるなど、日本の官界に深く関わり続けた男の言葉だ。まず、信ずるに足るだろう。


 仁一郎はまた、二・二六事件に際して友人何某が次のような説を展開したと、その著書『目あきの垣覗き』にて述べている。


「併し松波君、思ひ様に依っては、高橋翁は幸だったかも知れないぜ。翁は其齢既に八十を越え、此後生きて居ってせいぜい五六年か七八年だ。早くすれば二三年かも知れない、尚又、岡田内閣が一年前後で崩壊して高橋翁が閑地に就くとすれば、老人の常として、激職より簡逸に入る間隙すきは直ぐ死ぬものだ。さすれば他人は、流石の高橋さんもとうとう死んだか、もう一二年は生かして置きたかった位で片付けて仕舞ふだらう。然るに今度アノ死に方をされた為め、上下挙って哀悼し、何年経っても其功労は忘れない。アノ築地本願寺に於ける高橋さんの葬式の盛んなるを見ても判るぢゃないか。要するに高橋さんは大いに其死所を得たもので、実に幸福な人だ」(8頁)


 これを聞かされた松波は、


 ――人が殺されたのに幸福だと? なんと怪しからん物言いだ馬鹿たれめ。


 と一旦は憤慨したが、ちょっと時間を置いてから改めて考え直してみるに、


 ――なるほど、奴の言う事にも一理あるか。


 決して愉快な心持ちではないものの、確かに認めるべき幾多の要素を含んでいると頷くに至った。

 

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 暗殺は殺された側を偉大にすると俗に云う。


 松波の友人何某の言は、その原理を心憎いほど的確に道破したものであったろう。冒頭に記した山縣の、


「伊藤は羨ましい死に方をした」


 というぼやきもまた、同じ原理に添うものだ。

 

 


 明治42年10月26日午前10時、北満洲ハルピン駅プラットフォームで兇漢・安重根の放った弾丸に斃れるまでの伊藤博文69年の経歴は、まったく絢爛荘厳言語を絶する。


 取るに足らざること水面に浮かぶ塵芥の如き卑賤の家に生まれた子が、松下村塾に出入りした縁をきっかけとして幕末の風雲に参画し、血煙立ち込めるその動乱期を命からがら潜り抜け、続いて明治を迎えてからは相次いで起こった反動・政変・内紛をも無事に越え、やがては日本最初の総理大臣の椅子に着き、最初の枢密院議長ともなり、最初の朝鮮統監にも就任した。


 素晴らしい。


 最高位階の初代という栄冠を、見事に独占してのけている。

 成り上がり者の夢みるところ、その悉くを体現したのだ。世に志抱く男児であれば、誰だって伊藤に憧れるだろう。「今太閤」の呼び名も納得である。
 実際、みずからの才覚と勇気と天運を頼りに底辺から頂点まで駈け上がったという点に於いて、また韓半島の人士たちから蛇蝎の如く忌み嫌われたという点に於いて、伊藤博文豊臣秀吉は酷似している。


 が、秀吉と異なり、伊藤は老醜を晒さなかった。


 より正確な表現を期すれば、晒す前にその生命を強引に断絶せしめられた。
 その断絶があまりに急で、かつ劇的であったがゆえに、世間人心に与えた衝撃というのも凄まじく、彼の欠落により生じた空白、その規模が、実像よりも二倍・三倍も巨大な代物として印象されるに至ったのだろう。


 ――色好み。
 ――芸者狂い。
 ――助平親父。


 などといった数々の悪口醜聞は、その巨大な空白が穿たれる際、一緒くたに引きずり込まれて潰えてしまった感がある。
 ただ、巨きく偉大なものが消え去ったという喪失感だけが遺された。

 

 


 ――馬鹿な奴だ。


 その言葉を最後に息を引き取った伊藤の遺骸は、折しも大連に停泊中だった軍艦秋津洲に乗せられて、11月1日横須賀に着、祖国の大地へ帰還を遂げる。


 同月3日に予定されていた天長節明治天皇直々の御意向によってその夜会が中止され、更に帝は勅使を遣わし、以下の如き誄詞を下賜。難解なれど、一読の価値ありと信じて掲載させていただく。


 志ヲ立テゝ奮励王政ノ復古ヲ唱へ、難ヲ排シテ邁往まいおう宏猷こうゆうヲ維新ニたすケ、憲法ヲ草創シテけずラザルノ典ヲ修メ、韓国ヲ指導シテかわ ルコトナキノ盟ヲ締ビ、股肱之ニリ、柱石之レ任ジ、忠貞、君ニ奉ジテ公正、事ニ當リ勳績倍々ますます顕レ、望、一世ニ隆シ、忽チ訃音ニ接ス、なんゾ軫悼ニヘム。茲ニ侍臣ヲ遣シ、賻ヲ齎ラシ、以テ弔慰セシム。


 国葬が正式決定されたのはこの翌日、11月4日のことだった。


 葬儀は日比谷公園を会場として営まれ、各国元首、及び政府の弔電が数多舞い込み、山縣、大隈、板垣らの元勲や、当時の首相桂太郎以下諸々の政府関係者に見送られての、まことに華やかなものだったと云う。


 悪餓鬼の利助が斯くも惜しまれて世を終えたのだ。


 大満足の出来だろう。狂輔が羨むわけである。現に後世の我々からして、伊藤博文の死に様はよく知悉するところだが、山縣有朋がいつ、どこで、どう死んだかを問われると、ちょっと言葉に詰まらざるを得ない。


 戒名は、文忠院殿博誉古林春畝大居士。


 伊藤の肉体に三発の鉛玉を叩き込み、この戒名へと仕立て上げた張本人、安重根は旅順に於いて後に裁かれ、殺人罪にて死刑判決。明治43年3月26日粛々と執行されている。
 欧米各国のみならず、当の韓国の人々も、その刑の意外な軽さに驚いたという。

 

 

伊藤博文演説集 (講談社学術文庫)

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