シアトルを出航してから一週間後、昭和七年八月五日。六千トン級旅客船、ユーコン丸はスワードの港に碇を下ろした。
二十世紀の当時に於いても、二十一世紀の今日でも。キーナイ半島東岸に開けたこの街が、アラスカ鉄道の終点であるのに変わりはない。
(Wikipediaより、スワードの上空写真)
矢部茂のアラスカ旅行は、ここで一つの節目を迎える。
水路から陸路へ。船から汽車へ交通機関を切り換えて、更なる奥地を目指すのだ。
同じ極北を突っ走る鉄道でも、シベリアの方は紀行文も結構多い。
松波仁一郎がそうしたように、ヨーロッパ行きの足として多用されたがゆえだろう。
が、繰り言になるが、私の知り及ぶ限りに於いて、アラスカ鉄道の味を知る大日本帝国臣民はこの矢部茂ただひとり。
初見なだけに、その内容は瑞々しい物珍しさを伴って。飽きることなく読ませてもらった。
朝七時三十分の此汽車にはユーコン丸からの人々が大部分を占めて居る。
二台の客車に一台の展望車がついて、それに僅か十七名程の乗客である。
ハーディング大統領がアラスカ開発の遠大なる計画の下に、大枚七千万弗を投じて建設した、(中略)フェアバンクスに達する全長四百七十哩の此の大動脈も、一週間一回の運転にも拘らずこんな淋れ方である。米本土の前古未曾有の不況の影響は、其末梢神経に当るアラスカに、かくも烈しく反映する。(『アラスカ日記』62頁)
(Wikipediaより、アラスカ鉄道)
なお、この「一週間一回の運転」というのは五月から九月にかけてのみ、いわゆる繁忙期限定のダイヤであって、それ以外の期間に於いては更に交通量が減る。驚くなかれ、十日に一本の運転になる。
当時のアラスカ人口は、ほんの五万八千程度。
その内訳を更に探ると、白人二万八千に、先住民族三万という按排である。
矢部茂の言葉を借りれば、「ドイツとフランスと英本土がぽっこり入らうと云ふ広いアラスカ」に、たったこれだけ。
とんでもない稀薄さだった。
この空漠ぶりが前提としてあればこそ、週に一度の運転だろうと特に苦情の声もなく、十分やっていけたのだろう。
ついでながら付記しておくと、現在のアラスカ人口は七十万を突破して、人種構成も六割四分が白人だ。
まさに隔世の感に堪えない。
(エキスモーの女性)
ところでこのスワードで、矢部はなかなか趣深い出逢いをしている。
出稼ぎではない、定住する日本人が、ここにはいくらか存在していた。
西山老人もそのひとり。六十近い独身男で、スワードにて生活すること、既に二十五年の長きに及ぶ。
半生を捧げたといっていい。
半生を捧げて、この男は街一番のビリヤード場を磨き続けた。
言葉通りの意味に於いてだ。ボルネオ島バンジャルマシンの西荻青年、代金を踏み倒そうと試みた蘭人兵士を注意して、逆に暴行を加えられ、半死半生の憂き目に遭ったあの邦人は自前の店を有していたが、西山老人の場合は違う。
床を磨き、台を整え、窓を拭く――一介の清掃員として、この異郷の地に二十五年を過ごしたのである。
その間、幾多の変化が店を襲った。
トップの顔にしてみても、都合三回入れ替わっている。
されど西山が掃除番であることだけは、一貫して変化なく。
地蔵のような顔付きで、連日連夜、黙々と職責を全うしている。
「まあ、面白い爺さんだよ」
邦人同士の間でも、あれは一廉の奇傑なりと囃す声が高かった。
矢部茂は、興味を惹かれた。
ついふらふらと、街外れの彼の住居を訪問している。
突然やってきた同郷人を、しかし西山は上機嫌でもてなした。「老人は丁度ビールを三十本
(Wikipediaより、密造酒の製造方法を説明する元密造者)
合衆国が禁酒法の桎梏から自由になるまで、まだ一年以上の時を要する。
実のところ、矢部は無類の酒好きであり。憂いを払う玉帚を民衆の手から無理無体にむしりとるこの政策を、「露国はマルキシズムに悪く固まって禁酒し米国では女房と牧師と道徳屋に引ずられて禁酒の愚法を施行した」と、さも直截に罵倒している。
――かう毎日雨に降られて、酒も無しとは吾等上戸党には世界不況よりも、グンとこたへる。腹も立つ。
不平不満を紙面にぶつけて憚らなかった人物だ。
それだけに西山老人のもてなしには感じ入ったに違いない。
嬉しそうな顔をして、この掃除番が取り出したるはウイスキー。
トマトを切ってパセリを添えて、互いにグラスを傾けながら、西山は己が数奇な人生を、矢部は最近の満洲事情を、飽きることなく語り合ったそうである。
あくる朝、アラスカ鉄道の車窓から、千古の景色に恍惚とする矢部茂の手元には、一握りのチューインガムが。
態々駅のホームまで見送りに来た西山が、餞別がわりと――半ば押し付けるようにして――持たせてくれたものである。
その食感を楽しみながら、彼はほんの数百メートルの近きに迫ったスペンサー氷河の荘厳ぶりに、忘我の吐息を漏らすのだった。
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