穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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釈迦と尊徳 ―奇蹟を否定した男たち―

 

 二宮尊徳の逸話に次のようなものがある。ある日客人があって、その人から念力で不治の病が癒えたとか、神のご加護で大豊作が齎されたとか、その種の所謂奇蹟の話を聞かされたときのことだ。尊徳はまず、


「なるほど、それは結構なことだ」


 と、もっともらしく頷きつつも、


「然しながら」


 と切り返し、そこから先の論駁ぶりこそ凄まじい。曰く、


「そんな不思議なことは誰でも、何時でも、何処でも行うことは出来ない。だから稀にあったとしても、民草の幸福を進める上では何の役にも立ちはしない。わしの道は、種子たねを蒔けば収穫がある。怠れば収穫がないという道で、何処でも、誰でも、何時でも行うことが出来る。そして、誰がやっても必ず同じように結果をむすぶ。従って、わしの道は万民を幸福に導く道である」

 

 

Statue Sontoku Ninomiya

 


 奇蹟を無価値に等しいと一蹴するこの言説に触れて、瞬間、私の脳裏に電撃的に去来したのは『アーマード・コア フォーアンサー』CHAPTER2の開始ナレーションに他ならなかった。


 企業における軍事力は、コントロールをその第一の要件とし、代替不能な個人にこれを委ねることは厳に慎まれるべきである。リンクス戦争以降、それは企業の共通認識であり、その結果として生まれたのが、巨大兵器アームズフォートであった。


 普遍性と再現性の重視。両論の根底に流れる合理主義には、どこか相通ずるものがある。

 


 似たような趣旨のエピソードは、『阿含経』にも散見された。

 


 釈迦が弟子を伴って、河岸を歩いていたときのことである。ふと釈迦は背後の弟子を顧みて、


「この河が氾濫した際、商人が岸辺に立って、対岸を招き、おおいこっちに来ておくれと呼んだとしよう。さてこの場合、対岸はその人の招きと祈りと希望と請求とによって、この岸に交わってくれるだろうか」
(なにを言われるのだ)


 地震でもなしに、大地が動く道理がないではないか。いくら金銀を積もうが叩頭しようが、一向無意味な事である。


「そんなことはあり得ません。不可能です」
「そうだ。同様にバラモンどもが祈りと希望と請求とによって、死後梵天に生れんとするのは徒労である」


 梵天については、我々にとっての極楽浄土あたりの語感を浮かべてくれればそれでよい。釈迦はとにかく、この梵天――死後の楽土というものを事あるごとに否定した。


「現にこうして目に見えてる日月星辰すら行くべき道を示せないのだ。にも拘らず、見えもせず、知りもせぬ梵天へ行く道を説くというのは甚だ馬鹿気た話である」


 これなどは、その傾向が最も露骨に表出した台詞であろう。

 

 

Buddha in Sarnath Museum (Dhammajak Mutra)

 


 釈迦にとって宗教とは、個々人の人格修養、人間性の錬成以外に如何なる目的をも含んでおらず、また含んではならないと、厳格に規定しきっていた。それぞれの人格が向上して、最高至上の点――敢えて難解な字句を用いれば、無碍大空むげたいくうの平安境――まで進み行く、これがすなわち宗教である。


 自分の前に自分の祈るべき神はない。自分の傍に自分を救けてくれる造物主もまたいない。そういうものは自分の相手にすべきものでない。みずからの運命は、みずからの手で開拓しなければならないという、そうしたまことに力強く、かつ男らしい姿こそ、原始仏教の世界を覗いた際に浮かび上がってくる釈迦の像に他ならないのだ。

 

 


 釈迦と尊徳。この両名は揃って奇蹟を否定した。背面世界や超能力を無価値と断じた。そんなものに縋るなと、叱咤しているようにさえ感ぜられる。否定して、常識的・中庸的発想に基く平凡論に落ち着いた。


 ところが多くの人々にとって、こうした平凡論ほど退屈で無味乾燥然としたものはない。


 むしろその常識が滅茶苦茶に破壊され、蹂躙される展開にこそ快を叫ぶ。


 前述の『アーマード・コア フォーアンサー』にしてからに、「代替可能な多数の凡人によって制御され、ハードウェアとして安定した戦力を約束する」理想的な兵器・アームズフォートを、「代替不能な個人」たる主人公の操るネクスト一機を以ってして、紙細工の如く破壊し噛み千切り焼き払うところに面白味があるのではないか。


 人生を大悟したる覚者の正論が見向きもされず、却って精神的畸形者の吐き出す鬼論こそが人気を博し、大衆に持て囃される所以はここにある。


 全く以って度し難い。

 

 だが、斯く度し難くあってこそ人の道と信じる見方もあるわけで。

 

 ああ、何が何やら、段々こんがらがってきた。当初訴えたがっていた何事かを見失ってしまった感がある。つくづく人世ひとよは一筋縄で解き明かせぬと、そう痛感する以外ない。

 

 それでもただひとつ明瞭なものがあるとすれば、私がフロムにアーマード・コアの新作を望んでいるという、しかも熱烈に希望してやまないという、この火の如き衝動だけだ。

 

 ――戦い続ける歓びを。

 

 あのハイスピードバトルメカアクションを、もう一度味わいたくてたまらない。

 末法こそ悦ばしけれ。なるほど、度し難いのは私も同じか。

 

 

 

 

 


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