明治維新から半世紀。山口市は、近代産業に見捨てられた街の
人口、僅かに三万三千。大都会岡山の十三万はもとより、同時期の鳥取と較べてさえも六千人ほど少ないという寂寞さ。
(山口市米屋町本通り)
「工場」と呼べる施設など、市内どころかその近郊を探しても、影も形もありゃしない。屋並みを抜いて突き出す煙突はたった三本、その所有者を洗ってみれば、銭湯と醤油屋と大衆食堂と来たものだ。
おかげで大気に煤煙混じらず、呼吸は至って涼やかで、眺望の方も頗るよろしい。山口盆地の
「このわびしさはいったいどうだ」
が、回天の主軸を担った雄藩、長州藩のイメージを抱いてこの地を踏んだ輩というのは、いつも決まって意外そうにこう叫ぶ。
革命の果実をむさぼったのだ。
もっとうるおっていて然るべきでは――そんな先入主があったのだろう。
当代随一の漫画描き、岡本一平を以ってしてすら
『中国漫画行脚』の中に於いて彼は云う、
「なんといふ
見渡したところ市中で煙突は三本しか見当たりません。その煙突も一本は湯やの煙突で一本は醤油やの煙突で一本は学生賄所の煙突です、何といふ工業嫌ひな市でしょう」と。
話が違うと、いまにも聞こえてきそうであった。
しかし工業がふるわずとても、別に栄えるものはある。
教育である。
当時の山口一帯は、学塾の数が何につけても多かった。
一平もすぐそれを知り、
「一たん町中へ入ると驚きます。蟻の行列のやうなのはみな学生です。ズボンの腰が手拭掛けでもあるかのやうに必ず手拭をぶら提げ日本は年中雨期かのやうに必ず高下駄を穿いて闊歩して行くのは高等学校の生徒です。士魂商才が算珠盤と簿記帳とを抱へ宿題の苦情をいひながら行くのは高等商業の生徒です。(中略)兎に角山口は町全体を挙げて教育に捧げてゐるのです。市民全体が教育家です」と、嘆声まじりに書き綴ったものである。
理由はあまりに明白だろう。
松陰吉田寅次郎の影響だ。
高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、山田顕吉、品川弥次郎、野村靖、飯田俊徳――。
彼のかつての門弟たちが幕末に演じた活躍と、あるいは新政府成立以後の栄達ぶりが、あまりにきらびやかでありすぎた。
輝きは憧憬を喚起して、その憧れが、やがては模倣者の大量生産へと連鎖する。
我こそ第二の松下村塾を開かんと気血を燃やした野心家が、それだけ多かったということだ。
その結果として「これを洋の東西にその比を求むるならば。英の
なお、ついでながら触れておくと。――
目下のところ山口市の人口は十九万二千九百十一人。
一方鳥取はというと、実に十八万四千五百五十七人。
岡本一平の漫画行脚より約一世紀、相も変わらず僅差なれども、どうにか逆転に成功している。
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