穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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人間が苦労した時代


 山をぶち抜かねばならぬ。


 琵琶湖の水を京都へと、どっと落とし込むために──第一疏水の成就には、なにがなんでも長等山の懐に穴を掘り開けねばならぬ。

 

 

 


 時は明治十八年。日本史上に前例のない大トンネルの開鑿につき、二つの人間集団に、主任技師は目をつけた。


 一つは生野銀山で経験積みし坑夫ども。


 一つは街の石工衆。墓石やら石碑やらを彫り刻み、生活の資とする、そういう手合い。


 彼らを抱え込むための折衝がまずあったとか。この采配に関しては、種子島の鉄砲鍛冶師どもをして村田銃の量産作業にあてがった例の施策を想起して、一種格別な感慨が湧く。


 前者には比較的軽めの槌を、後者には反対に重めの槌をふるわせて、役割分担を行ったそうな。「今日、トンネル工夫に、重槌、軽槌の二種あるのは、全く濫觴をこの時に発してゐる」とは、まさにまさしくその主任技師、──田辺朔朗の弁である。

 

 

Tanabe Sakuro.jpg
(Wikipediaより、田辺朔朗)

 


 弱冠二十一歳にして疏水工事を任された、英才まばゆき超新星。新進気鋭の見本のような田辺であったが、華麗至極な世間評とは裏腹に、いざや計画を実行すると予想だにせぬ問題が次から次へと噴出し、はかばかしからぬ進捗に危うく心折れかけたのも、一度や二度ではなかったという。


 わけても斯かる衝動が最大限度に高まったのは、明治十九年の二月。湧水対策のためのポンプが故障して、地下で働く作業員数百名の生命が累卵の危うきに瀕した瞬間こそである。

 


「長等山の掘鑿にはまづ立坑を掘ったが、立坑からトンネルを掘るのはこれが日本で最初だった。湧き出す水をポンプで汲み上げたが、電気のない頃のこととて蒸気ポンプだ。蒸気ポンプだからパイプが邪魔になる。工事の進行に従ってこのポンプを大きなポンプに取替へることになった。十九年二月のことだ。ところが突如故障で小型ポンプが運転を止めてしまった。水は刻々に増す、大型はまだ動かぬ。このまゝで数刻を経過すれば坑の中に働く幾百の生命はどうなるか。あせればあせるほど機械は落ちついて微動もせぬ。私は天を仰いで泣いた。大地を踏んで唇を噛んだ。思ひ迫った末シャフトに飛びこんで死んでしまはうと思った。
 しかし『おれは強いぞ』と思ひ返し、関係者を総動員して、大樽で命がけに汲みあげた。さうするうちにポンプは動くやうになったが、それと同時に機械主任の大川米蔵君の姿が見えなくなった。彼はポンプの動くやうになったのを見て狂喜し、シャフトへ飛びこんで自殺してしまったのだ。この隠れたる犠牲者の霊を慰めるため、私は後年疏水に望んだ蹴上の一角に、一基の碑を建てゝ感謝追善の微意を表した」

 


 なんという漢たちであったろう。


 剥きだしになった魂の凄味というか迫力を、この情景には感じずにはいられない。


 ところで電気がないということは、当然電燈もないということ。


 二千四百メートル超のトンネル開鑿工事に際し、その坑内にて使用された光源は、これ悉くカンテラだった。

 

 

(フリーゲーム『ネノクニ』より)

 


 煤の始末が厄介である。厄介どころの騒ぎではない。誰も彼もがこの副産物の影響で、鼻腔はおろか咽頭、気管、肺の中まで真っ黒になり。田辺朔朗にしてからが、工事を終えて地下より解放されてなお、およそ半年の長きに亙り煤の混じった黒痰を吐き続けたということである。


「今日の監督者にはこんな不衛生状態は想像もできまいと思ふ」──国土改造の功労者がそんな風に嘯いたのは、実に昭和三年のこと。第一疏水の完成から、およそ三十八年の月日が流れた頃だった。

 

 

 

 

 


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