ドイツの古い諺である。
表題のことだ。
正確には、『山は高し、然れども山よりも高きは天なり。天は高し、然れども天よりもなお高きは人の思想なり』。ビスマルクやニーチェを生んだ彼の国らしい言辞であろう。
永井柳太郎はこの古諺を好み、殊に教育問題を論ずるに際して引用すること多であった。
天――すなわち宇宙が如何に広大無辺であろうとも、その中心に座して万物を支配する法則を発見し、進んでは宇宙の本体そのものをも見極めずんば
永井の信念を要約すれば、おおよそこのような具合となろう。
快とすべき代物だ。
男子たるもの、このぐらい昂然たる意気を持たねばならぬ。あくまで人間の偉大さを信じ、高唱して憚らない――それが永井柳太郎という漢であった。
「小大隈」の異名で呼ばれるだけはある。
そんな永井の眼から眺めた場合、世に実行されている教育ときたらどうであろう。さぞやせせこましいモノとして印象されたに違いない。
「これではいかん。こんなことでは駄目なのだ」
昭和初頭に永井柳太郎が放ったこの獅子吼は、そっくりそのまま現代日本社会にも当て嵌まるものだ。
私自身、遠い記憶を探ってみるに、学校教育で血沸き肉躍るといったような、そういう意気軒高たる教えを受けた覚えというのはざらにない。
むしろその逆、人間というものがどれほどちっぽけな存在で、自然環境やら何やらに繊細な配慮を行いながら生きて行かねばならないものか、くどくど説かれた思い出しか見当たらぬ。
経済成長に伴う数多の公害問題を経験した影響とてあるのだろうが、それにしたって限度があろう。
加えて言うなら何ヶ月か前、ネット界隈を賑わわせた漢字テストの採点はどうだ。些細なトメ、ハネ、払いまでも容赦なくどんどんバツにして、本来満点であるべきものを、僅か16点に処したあの件である。
――漢字には、複雑煩瑣な文字があまりに多すぎる。これでは学問の糸口に過ぎない文字の習得に子弟らの貴重な時間が湯水のごとく浪費され、却って学問本分の発達を阻害する。主客転倒の実例として、これほど甚だしきものはない。
そう主張して漢字廃止論を展開した福沢諭吉があのザマを見れば何と言うか。少壮の時分から区々たる字句の解釈になど、何らの価値も見出さなかったことで有名な彼のことである、想像するに難くない。
「この教師、教師たるに値せず」
一言のもと、ばっさり切り捨て終いだろう。
今日の学校教育は、昭和初期にもいや況して、小粒な人間の量産にあくせくしている観がある。
今こそ永井柳太郎と、彼の愛した古諺とを噛み締めるべき
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