まだある。
人との縁も、彼はこのとき手に入れた。
平岡がまだボストンで、素直に学生をやっていたころ。総勢107名もの日本人が、この大陸にやって来た。
世に云う岩倉遣欧使節団のことである。
尊王攘夷を名目に徳川幕府をぶっ倒し、事が成るやその直後、さっそく看板を取り替えて、鎖国を解除し近代国家を目指しはじめた新政府。その手並みは鮮やかとしかいいようがないが、さて文明とは、国家とは何かということになると、どの男にも定見がない。
海図も羅針盤もなく、突如大海原に放り出されたみずからに、漸く彼らは気が付いた。
(まずい。どうにもまずい状況だ)
漂流の恐怖から脱出するには、せめて岸のある方角くらい知らなければどうにもなるまい。
ということで、彼らは見に行くことにした。自分達の到達すべき「文明」とやらが如何なる相をしているか、全身で味わいに行ったのだ。
斯くして革命直後の政権から、基幹要員がごっそり国外へ旅立ってしまうという前古未曾有の事態が起こる。
この政治的空白が、やがては征韓論騒ぎを醞醸せしめる土壌にもなり、あの騒然たる西南戦争にまで繋がるわけだが、それはまあいい。
とまれ、彼らは研究目的で渡航した。
知るべきことは無限に等しく膨大で、耳が十あっても足りやしない。
すぐに通訳に不便を来した。単純に数が足りないのである。人員を増強する必要性が生ずれば、現地の子弟に交じって学業に励む平岡なぞは格好の的。白羽の矢が立てられたのは、至極当然の成り行きだった。
平岡はまず木戸孝允の通辞役として近侍して、その関係――長州閥――から伊藤博文と知り合う流れに。
(話せる奴だ)
と、どうも互いに思ったらしく、みるみるうちに心通じる仲となる。
伊藤もまた若かりし頃、海外留学を経験した男であった。イギリスかアメリカかで渡航先に違いはあれど、当時の己を顧みて、平岡が他人に思えなかったに違いない。
岩倉使節団はアメリカに、およそ八ヶ月もの長期滞在を行っている。
その間、志を開陳する機会があったのだろう。平岡の夢が那辺に在るか知った伊藤は大いにこれを良しとして、
「君が工業を学ぶ目的は先見的で感服だ。帰朝したる暁は俺の処へ来るが宜い、何でも世話をしてやるぞ」
ほとんど肩でも組まんばかりの岡惚れぶりを発揮している。
「これは。……」
自己の器量をここまで見込まれ、なお澄まし込んでいられるほどに、平岡は無感動な男ではない。
胴が慄えるほどに感動し、ほとんど二の句が継げなくなった。
あの筋金入りの偏屈が、これはどうしたことだろう。思うに所詮、士は己を知る者の為に死ぬいきものだ。そして伊藤は平岡を、実に正しく理解した。そう考えるより他にない。
このとき生じた紐帯は、ついに生涯のものと化す。
こんな話が伝わっている。明治三十年代のことである。
瓢屋なる
(Wikipediaより、三味線を弾く平岡)
その最中、やおら伊藤が硯を引き寄せ、延ばした紙に墨痕淋漓と、
位置は固より高くも荷は甚だ
産は営むに非ず、詩碁
禄は今受けず、質も亦置かず
蜂には藪の中で折々
苦は常に
このようなものを書きつけた。
即興詩である。
春畝――博文の號――らしい、素朴な味わいの歌だった。
それを指に挟んで差し出して、
「平岡君、これを遣ってみてくれたまえ」
目元に皴を溜めつつ言うのだ。
受けて平岡、
「よござんしょ」
我が手並みをご覧あれ、と大いに頷く。
平岡にも意地がある。
おれこそ当代一の遊び人という意地である。
そのプライドが、彼の創造性を最大限刺激した。
この場合、長思案をしてはならない。伊藤侯に負けず劣らずすらすらと、一気呵成という表現がぴったり嵌る勢いで、相応しき曲譜を描き上げるのだ。
それをやった。
直ちに居並ぶ芸者を指揮し、演奏へと取り掛かる。爪弾かれる三味線の音、堂に入った節回し。どれをとっても一級以上の「仕上がり」である。
(流石は吟舟)
博文は、莞爾として聴き入った。
吟舟とは、平岡の號のことである。
つまりはそういう仲だったのだ。
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