英国人の周到さにはほとほと感服させられる。
義和団事件が激化して、北京市街に賊徒満ち、列強諸国の公使らが、生き残りを賭け慣れぬ銃把を握ってまでも死に物狂いの籠城戦をやらねばならなくなった折。
石井菊次郎は──後に米国国務長官ランシングと渡り合い、青史に名高いかの協定を結ぶに至る外務官僚、当人である──驚くべきものを見た。
「籠城の初日から、揃ひも揃って一定の服装で一定の銃剣を肩にして、行動」できた英国人義勇兵──あんまりにも手際よく、統一的な戦闘態勢への転換をこなしてのけたユニオンジャックの一党である。
「一定の服装は、彼等が平素の猟服を着用したのであるが、銃剣はと聞けば、英国公使館には、五十年前から貯へてをったもので、百挺程あったさうだ。これは五十年前、時の公使サー・トーマス・ウェード氏が、北京のやうな危険な所に公使館を置くからには治に居て乱を忘れてはならぬ。百挺程の銃剣は、断えず磨いて保存すべしとの遺訓を与へ、これが遵法せられて、錆も出さずに備へ付られてあったのだ」
転ばぬ先の杖、備えあれば患いなし。
流石英国、アヘンにアローに、二度の対支戦争を経て来た彼らに隙はなかった。
戦場という極限状態の対峙を通し、支那がどういう国情か、漢民族がいったいどんな性質か、骨の髄までとっくりと観察できたようだった。
なればこその備え、なればこその鮮やかな即応ぶりといっていい。
──ときにそれなら我々は、日本人は果たしてどうであったろう。
ほんの五、六年前に日清戦争を経ている以上、条件としてはさまで不利ではないはずだったが、何かしら「備え」はあったのだろうか。
石井菊次郎の回想中に、その旨ふたたび探ってみよう。
「我日本側は如何といふに、恥かしながら列国中一番の不揃ひで、且つ銃剣の用意もなかったから、已むを得ず思ひ思ひのいでたちで、あるひは日本刀を肩にし、はかまを着するあり、あるひは夜会服の捨てゝあるのを被って、棍棒を振り回すものもありといった有様であった。然し驚くなかれ、この不思議なる一隊が、籠城数日の後には立派な制服を着て、見事な銃剣を帯ぶようになったのである。勇気は固より日本人の持ち前であるが、被服、銃剣は如何にして手に入れたかといふに、昼間の乱闘で敵が遺棄した拳匪の死骸を、夜間に襲ふて服も剣も銃弾もそっくり取りあげ、翌朝からは制服でモーゼル銃を肩にして、銃弾を腰に巻くといふ早業で、この早がはりには、外国人も非常に驚いたやうであった」
なんとも逞しいことだ。
規模小なれども「糧を敵に因る」、孫子の教えを実行した形であろう。

これはこれで民族性のよき表れに違いない。
二ヶ月に及ぶ籠城戦の滑り出しの情景は、だいたいこんなものだった。
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