穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ポルトガルの独裁者 ―外交官のサラザール評―


 1910年、ポルトガル革命が勃発。


「最後の国王」マヌエル2世をイギリスへと叩き出し、270年間続いたブラガンサ王朝を終焉せしめ、これに代るに共和制を以ってした。


 ポルトガル共和国の幕開けである。

 

 

Estremoz13

Wikipediaより、革命の寓意画)

 


 この国が「ヨーロッパのメキシコ」と渾名されるに至るまで、そう長くはかからなかった。


「彼等の首は三ヶ月ごとに挿げ替わる」と英国人が言ったのは、必ずしも皮肉のみとは限らない。


 実際問題、ポルトガルでは1910年から1926年――たかだか16年かそこらの間に、内閣の更迭されること、実に48回の多きに及び。


 大統領中、四年の任期を全うし得た者たるや、アントニオ・ジョゼ・デ・アルメイダただ一人という情けなさを露呈していた。


 常軌を逸した目まぐるしさといっていい。


 これで何か、脈絡のある政策が行われたらそれこそ奇蹟だ。ポルトガルの運行は酔っ払ったチンパンジーにハンドルを任せたバスさながらに、盛大に道を踏み外してゆく破目となる。

 

 

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(ブドウを収穫するポルトガル人)

 


 欧州大戦に首を突っ込んだ代償として財政は極度に逼迫し、


 一億エクスードに達しない正貨準備にも拘らず、紙幣発行高は二十億エクスードの多額に上り、


 兌換券とは名前のみに堕ち果てて、


 貨幣価値は下落に下落、戦前1ポンド=6エクスードであった相場は1924年7月時点で1ポンド=160エクスードを刻み込み、


 必然として物価は騰貴、国民は塗炭の苦しみを味わわされた。


 それでもなお政府が有効な対策を施せなければ、次に来るものは一つであろう。


 赤色革命の好機至れりと、マルクス教の宗徒どもが勢いづくのだ。


 生活苦の土壌の上に、アカの菌糸はよく伸びる。その不気味な生育を、間近で捉えた者がいる。


 彼の名前は小峰俊一。在ポルトガル日本公使館に勤務する――早い話が笠間杲雄の同僚である。

 

 昭和六年に彼が物した葡萄牙共和国の鳥瞰』を参照すると、

 

 

…欧州戦後澎湃として世界に瀰漫した社会主義及び共産主義運動は恰もよし、民衆の生活困難と合して葡国に大恐怖時代を出現せしめ、労働争議、罷業続発し、暗殺強盗等も絶ゆる所なく、警察力のみを以ては治安の維持困難となり、有産階級者は資本を国外に移して自己の安全を計るに汲々たる有様であったため事業界の不振も言語に絶した。

 


 わかりやすく、末期の様相を呈していたのが窺える。

 

 

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(収穫したブドウの運搬)

 


 1926年、果たして革命の火の手は上がった。


 ただし実行したのはアカどもではない。小峰や笠間が言うところの「気骨ある軍人」達が主体となって、逸早く事に踏み切ったのだ。


 国民の熱烈な支持のもと、このクーデターは成就した。小峰はその淵源を、政党政治の積年の弊害に苦しんだポルトガル国民はイタリーに於けるムッソリーニファシスト独裁政治の成功と、隣国スペインに於けるプリモ・デ・リベラ将軍の軍人独裁政治の功績に刺戟せられ、ポルトガルにも独裁政治の出現を望むの風潮は可なり濃厚だった」ゆえであると、当時にあって分析している。


 概ねその通りであったろう。


 アカを防遏する方便としてファシズムを採る。ムッソリーニの筆法を勤勉になぞることにより、爆誕した独裁政権。その運営は、やがて孤独を愛する経済学者、アントニオ・オリヴィエラサラザールを迎え入れ、イニシアチブを委ねたことでいよいよ盤石の重きに至る。


 彼と、彼の手により生まれ変わったポルトガルの新たな姿を、笠間杲雄は非常に高く評価した。

 


 門や塀などに砲弾や、銃弾のあとが、在りし日の修羅場の名残を止めてゐるが、市民は穏やかに其の日を楽しんでゐる。これは大学教授から総理大臣に成り下・・・がった・・・リヴィエラサラザールの鉄腕で、政党を徹底的に解消し、菲政をあらため、国策の基礎を確立して、庶政一新国家更生に見事な成功を克ち得たお蔭である。
 さまざまの名物がなくなった。
 其筆頭の革命騒ぎが先づ止んだ。官吏の宴会が無くなった。財政の赤字は三十年振に黒字に替った。乞食の影も消えて行った。(『東西雑記帳』134~135頁)

 

 

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(アントニオ・オリヴィエラサラザール

 


 べた褒めである。


 この毒舌家が、そうそうあることでない。


 更に笠間は引き続き、

 


共産主義は太古以来しばしば実行された。しかもいろいろな形、いろいろな方法、いろいろなイデオロギーの衣を被せて実行されたが、いづれも失敗に終った。根底に無理がある。私は学者の立場から、古くて試験済のマルクシズムには断然反対する」


「私は他人が自分と違ったイデオロギーを持つのを認める。併し街頭を煽動して、卑怯にも直接行動を採らしむることは断じて認めることが出来ぬ」

 


 といったサラザール自身の言葉を引いて、その人格さえ称揚している。

 

 独裁者と呼ばれる人々が持つ、一種魔的なまでの魅力。御多分に洩れずサラザールにも、その傾向があったのだろうか。


 そういえば杉村楚人冠、筆に毒を含ませること笠間以上なあの人物も、サラザールに関しては、割と好意的だった。

 


 ポルトガルの首相サラザール博士は十年国政に尽瘁した廉によって、つひこの頃国民議会から表彰された。
 博士は元コインブラ大学の経済学教授であったのを時の政府から財政長官に招請され、しぶしぶその任には就いたものゝ、在職僅か五日にして、又元の大学へ還った人である。併しこの五日間に博士の才幹と人格とが認められて、二年後再び蔵相の職に就かせられ、次いで首相を兼ねることになった。それから十年経ったのである。
 彼は表立つことが嫌ひ、長演説が嫌ひ、喝采が嫌ひで、曾て一度も制服といふものを着たことがない。首都リスボンで催された彼の表彰式にも、彼は遂に出席しなかったといふから、甚だ愉快である。(『十三年集・温故抄』230~231頁)

 

 

Antonio Salazar-1

Wikipediaより、1940年のサラザール

 


 ファシズム国家ポルトガルが、曲がりなりにも1974年までその命脈を保ち得たのは、ただ弾圧が巧かったからではないのだと、自ずと察せられるであろう。

 

 

 

 

 


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