直木三十五が死んだ。
東京帝大附属病院呉内科にて、昭和九年二月二十四日午後十一時四分である。
枕頭をとりまく顔触れは家族以外に菊池寛、廣津和郎、三上於菟吉、佐々木茂索等々と、『文芸春秋』関係の数多文士で占められて。――そういう面子で、直木の最期を看取ったという。
享年、ものの四十三歳。
告別式やら葬儀やら、ひととおり儀式が完了すると、菊池寛はさっそくのこと筆を執り、直木を語る稿を起こした。書くことで故人を偲ぼうとした。その一節が、とりわけ
曰く、
「…『近藤勇と科学』などいふ題をつけたり、科学小説を書くといってゐながら、自分の病気となると、あやしげな民間療法に依頼してゐた。結核菌といふ機関銃も毒ガスも持ってゐやうといふ兇敵に対して近藤勇の如く、孤剣をふり廻してゐたのである」
と。
どうも直木はうさんくさい鍼治療に凝っていて、反面いわゆる近代的な西洋医学を容易に信じようとせず、経絡すなわち気の流れの調整でこそ己が病は癒せると希望を託していたらしい。分の悪すぎる賭けだった。然り而して案の定、いざ病院に担ぎ込まれた際には既に病膏肓に入りきって、手の施しようがないというに近かった。
それを菊池は痛惜している。
(viprpg『やみっちとデオドライザー』より)
スティーブ・ジョブズといい、本来強靭な知性の持ち主である筈の彼らが、こと「医」の面に関してのみは文明の成果に従わず、それより寧ろまったく前近代的な、おまじないの亜種めいた草根木皮の効能やら何やらを崇めようとするのやら、甚だ理解に苦しまされる。
菊池寛にもこの点不明で不可解で、ただ彼は、直木三十五という男の頑固さだけは知っていた。
厭というほど、知り抜いていたといっていい。素直に
「去年の秋から憔悴が眼についたが、今年になると、殊にいけなかった。よく木挽町のわれわれのクラブの机の前で、小さいこたつに足を入れて仰臥してゐた。殊に寝入ったときの顔など、死相をさへ感じた。『君からでもよく言って、養生させたらどうだ』よく、そんなことをいはれた。しかし、直木は一個人の生活では、人の意見を入れる男ではなく、また相談する男でもない。いく度注意しても同じである」
哀しみを籠めた諦観とでもいうべきか。
そんな文章を綴ってのけたものである。
(フリーゲーム『イミゴト』より)
このあたりで我々は、ひとつ中神琴渓を、江戸時代も後期に於いて名を馳せた良医の言葉を思い出すべきなのだろう。
「家屋を普請せんとして、大工に積らせ引きし絵図を、塩屋米屋が見て、此大工の図は悪しゝと邪魔したりとも、普請主会得はせぬなり、総てのこと、玄人のことを用ひ、素人のことを用ひぬに、病気の時ばかりは、医の言を用ひずして、塩屋や米屋の言を用ふ、塩屋や米屋も、己が知らぬことを差出て、巧者顔に弁舌を廻し、竟に人を殺す、是等が天地間、第一等の馬鹿者と云ふべし」
健康、養生、長寿の秘訣うんぬんは、全く以って迷信の巣だ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓