開国以来、宣教師らの熱意あふるる懸命な働きぶりがあったのにも拘らず、ついに日本社会には、キリスト教が勢力として大を誇るを得なかった。
この失敗の淵源は、果たして
──あまりに明白、聖書の翻訳作業に際し、人を得られなかったゆえ。
と、そこへ責任を帰す向きが、世の一隅に見出せる。
文士に於いては、例えば正宗白鳥が、顕著な同調者であった。
彼は云う、
「英国のバイブルは、文章に於ても絶大の美と威力とを持ってゐて、その詩句は、妙音楽の如く英国民の耳に響いて、いつまでも忘れないほどの感動を与へたと云はれてゐるし、ルーテル訳の独文の聖書も強烈な力をもってゐるさうである。しかし、末世に翻訳された日本訳聖書は、神霊の加護がなかったためか、平凡なものとなってしまった。無論翻訳者の苦心は容易なものでなかったに違ひないし、一種の新文体が創作されてゐるのであるが、典雅荘厳などの文章美は全く無いので、決して決して名文ではないのだ」
教義の中核、伝導の要に既にミソがついている。
日本人の魂を、根底から戦慄せしめ、神がかり的──憑かれた如くに震駭させるに足るだけの、言葉の力が宿っていない。だからその後もいちいち総てがパッとせず、今日に及んでいるのだと、つまりはそういうことらしい。


「アレに比べりゃカクレの方がまだしも良い書を記してる」
と、白鳥の議論はそんな域まで伸びている。正確に、ありのままを引くならば、
「日本訳の文章は、すべてノロノロしてゐて、人に迫る力がない、翻訳者に、ティンダルやルーテルの熱誠がなかったばかりでなく、日蓮の文才もなかった。慶長時代に著はされた『マルチリヨの鑑』などの方が、まだしも宗教上の文章として優美と熱情に富んでいる」
あながち荒唐無稽でもない、一理を認めていい説だ。
ぱらいぞ、べんぼう、えわんぜりよに何だのと、中二心にぎゅんぎゅんぶっ刺さりそうな数多単語を生み出した、それだけでももう隠れキリシタンたちの上には十分過ぎる功がある。いっとき見事にドハマリしていた

ぺる しいぬん さんて くるしす で いにみしす なふすちりす りべら なふす でうす なふすてる。
いん なうみね ぱうちりす ゑつ ひいりい ゑつ すぴりつ さんち あめん。
助かる道は一つなり、分くれば三つ、くずせば七つ。すすてんしやの船に乗り、こんひさんの網をとり、てんぺらんさの棹をさし、サン・ペートロ様、サン・パブロ―様、サントサカラメントー様御使いをもって、天のぱらいぞの港につき給う、石さしにつき御門を開かせ給いて、ぱらいぞの内に入らせ給う御ことなり。
久々にオラショでも聴きたい気分だ。
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