薩摩藩士で当時西郷隆盛の参謀役を勤めていた海江田信義が城内の府庫を改めたところ、積まれている金の量が、意外に少ない。思わず立ち会いの山岡鉄舟を顧みて、
「もっとあるはずじゃが?」
と訊ねたのが、迂闊だった。
途端に鉄舟は眼窩から火を噴くような顔つきになり、
「金の事なぞ、江戸の武士が知るものか」
傲然と答えてのけたそうである。これには海江田も赤面する意外になかった。
山岡鉄舟という人物の、こういういわば硬骨ところが西郷のツボに見事に嵌まり、結果江戸城無血開城というあの奇蹟が現出するに至ったのだろう。
しかしながら、江戸幕府を興した東照大権現神君徳川家康公のカネに対する観念は――一介の侍と万軍を率いる大将とである以上、これは当然のことなのだが――鉄舟のそれと大きく異なるものである。
家康公がその分厚い皮下に張り巡らせていた経済感覚というものは、それこそ徳川300年の歴史の中で出現した全閣僚と比べても、あるいは最上位に君臨しかねないほどに卓越したものだったろう。
何故、そのように言えるのか。
根拠は、「久能山御蔵金銀受取帳」なる古文書である。
これは家康公が永眠なされた元和二年――すなわち西暦1616年――11月21日に、それまで駿府城に置かれていた彼の遺産の総額を調べた帳面であるのだが、その内容が物凄い。
まず、黄金だけでも一箱二千両入りのものが四百七十箱存在している。だからこの時点で九十四万両を数えるわけだ。
更に銀の方はというと、一箱十貫目入りがなんと四千九百五十三箱。ここまで膨大だと、数えるだけでも一苦労であったろう。
金一両=銀五十匁という江戸時代初期のレートに合わせて換算するに、一貫=千匁だから、十貫=一万匁、すなわち二百両入りの箱が四千九百五十三箱あることになり、総額九十九万六百両という数字が導き出される。
この二者を合わせて、百九十三万六百両。一両を現代貨幣価値に換算することは容易でないが、適当に十万円前後と考えていいなら、権現様のご遺産はざっと二千億円程度ということになるだろう。
懐紙一枚にすら拘る男が、同時に二千億もの財を築く――。この事実から味わうべきところは大である。
だが、まだだ。二百万両ですら、ある意味に於いては氷山の一角。家康公が遺した財は、単純な金銀のみにとどまらない。
もう一冊、絶対に見逃してはならぬ帳面がある。
「久能山御蔵金銀受取帳」と同じく、尾張徳川家の所蔵であった「駿府御分物御道具帳」というのがそれである。
読んで字の通り、家康公が世を去ったのち、駿府城に遺された大量の道具類の目録だ。
主に刀剣関係で名を聞くことが多い古文書だが、この帳面に於いて真に着目すべきは刀槍甲冑の類でない。
織物、香木といった、いわゆる交易品の数々である。
高価な品に的を絞って箇条書きにしてみると、
・羅紗………251巻
・サテン……565反
・
・金襴………129巻
・緞子………1271巻
・繻珍………122巻
・
・紗綾………282反
・撰糸………1056匹
・甲斐絹……431反
・伽羅………27貫
・沈香………50貫
おおよそこのような具合になる。
しかも家康公は、これらの品々をただ駿府城に積み重ね、観賞して独り悦に入っていたわけでは全然ない。そりゃあそうだろう、妻を迎える心得として、
「能く木綿を織り得べき女を求めよ」
と訓戒した人物だ。そのような鑑賞趣味とは無縁であった。
では何に用いたかというと、市場価値の変動に合わせて上手く転がすことにより、大きな利益を得ていた事が英国商人リチャード・コックスの日記帳から判明している。
いやはや、まったく、児孫のために美田を買わず、どころの騒ぎではないだろう。
家康公は子孫のために、為し得る限りのことを為し、遺し得る限りのモノを遺した。
政戦両面に於いて非常に卓越した業績を残した、正真正銘抜山蓋世の大英雄。「神君」の名に恥じぬ王。徳川家康とは、そういう漢だ。
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