戦争の惨禍を蒙るのは、なにも人間ばかりではない。
物言わぬ動物も同様である。
以前私は、ハーゲンベック動物園の悲劇に触れた。欧州大戦末期に於いて、飢餓に苦しむハンブルクの住民は、かつてあれほど秋波を送った堀の向こうの動物たちを、もはや可憐な隣人と看做す余裕を失くした、と。
(Wikipediaより、1890~1900年ごろのハンブルク)
彼らにとってその四つ脚は単なる脂肪とタンパク質の塊であり、ほんのいっときとはいえど、餓鬼の境遇から
資源ならば資源らしく、然るべき処置が執り行われて――やがて戦火が熄んだ際には、たった三匹の猿を除いて園内はがらんどうと化していたと、そういう話を確かした。
ところがどうも、こういうことをやったのは、べつに彼らが第一号ではないらしい。
フランス人がずっと前にやっている。
遡ることほぼ半世紀、普仏戦争のやはり終盤、包囲されたパリに於いてだ。大英帝国の特派員、ヘンリー・ラブシェアがそれを
ラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてはこれまで食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を書くことに専念した。
ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリーニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。(フィリップ・ナイトリー著『戦争報道の内幕』37頁)
まさしく秀吉に包囲された鳥取城の如し。
共喰いといえば、ラブシェアの記事にはこんな一節も存在している。
「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」(37~38頁)
(パリの街並み)
既にナポレオン三世はセダンの野で捕虜とされ、彼の敷いたフランス第二帝政も、修羅の巷の一夜の夢と潰え去っているというのに。
開戦時とは、あらゆる事情が根本から覆っているというのに。
勝機など、どの角度から観測しても、藁半紙より薄く脆いものだというのに。
それでもなお、フランス人は剣を手放すことを拒んだ。
徹底抗戦を口にして、絶望的な籠城戦を敢えてした。
それは一つの偉観に近い。
こんなことになってまで、闘うことが出来るのだ。
こんなことをしてまでも、闘うことが出来るのだ。
こんな惨事を経てもなお、次の戦に立てるのだ。
ホッブズは正しい。人間の自然状態は、万人の万人に対する闘争であるに違いない。
(Wikipediaより、パリ包囲戦・砦の守りに就く学生たち)
人の奥底には獣が潜む。文明が如何にこれを押し込め、蓋をしようと、可能なのはそこまでで、消し去ることは永劫叶わぬ不滅不死身のケダモノが。
皮膚や毛髪、瞳の色に拘らず、こればっかりは全人類が等しく有する共通事項――拭えぬサガであるだろう。
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