福澤諭吉の言葉には、西哲の理に通ずるものが多少ある。
たとえばコレなどどうだろう。
増税案の是非をめぐって起こした――むろん『時事新報』上に――記事の一節である。
本来人民の私情より云へば一厘銭の租税も苦痛の種にして、全く無税こそ喜ぶ所ならんなれども、其苦痛は実際に到底免かれしむることを得ずとあれば、寧ろ一時に之を取て苦痛も亦一時に止まらしむるこそ肝要なれ。喩へば棒を以て臀辺を一撃さるゝと、又は細鞭にして絶えず叩かるゝか若しくは靴の底に釘して歩ごとに足を刺さるゝと、孰れが苦しきやと云へば、臀辺の一撃大なりと雖も、其痛みは一時にして之を忍ぶに容易なるが如し。
私の眼にはこの論説が、ほとんど『君主論』の再翻訳であるかのようにさえ見える。
つまり、
加害行為は一気にやってしまわなくてはいけない。
そうすることで、人にそれほど苦渋をなめさせなければ、それだけ人の憾みを買わずにすむ。
これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。
こんなのもある。
民論の勃興と相俟って、藩閥打破の声が高まる世の中で、
藩閥と云ひ元老と云ひ決して感服す可きものには非ざれども、兎に角政権を維持して国の治安を保つの効能あらんには敢て差支えなし、我輩は事情の如何に拘らず強ひて之を排斥せんとするものに非ず。
こういうことを言ってのけた福澤は、よほど剛の者だった。
彼の両脚は現実から一ミリも遊離していない。高遠な理想を掲げながらも、そこへ至る手段については驚くほど堅実だ。一足飛びなど夢寐にも願わぬ。有り体にいえば、妥協の仕方と重要性を知っている。
十七世紀のイギリスに、似たような感覚の持ち主がいた。トマス・ホッブズである。不朽の名著『リヴァイアサン』のページの中に
人々が見落としている事柄がある。それは、人の属するいずれの政体にも、必ず何らかの不都合がつきまとうということである。また、最悪の統治形態のもとで人民一般がこうむる(かもしれない)最大の不都合といえども、内戦や無政府状態にくらべれば取るに足らないということである。
やはり福澤はリアリストや合理主義者と相性がいい。
空理空論に翻弄されず、希望的観測に惑わされず。人間世界の本質をよく透見していた人だった。
死が訪れる三年前に、福澤は言った。
「人を祭るの要は其人の志を継ぐに在り」
と。
セシル・ローズも病に倒れてなお言った、
「人間の理想がその男の死とともに終わるという考えぐらい、馬鹿げきったものはない」
と。
「意思を継ぐ者がいれば 死人なんていない」
と。
(慶應義塾幼稚舎外観)
セシル・ローズは哲学者にあらずして、柴田ヨクサルはそもそも西洋人ですらない。
表題からはいささか脱線のきらいがあるが、それでもなお、これだけは、どうしても書き並べておきたかった。
近づく盆の雰囲気が、そういう気分に誘うのだろうか。
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