世の中には色々な
昭和十一年の夏である。
笠間杲雄は、たまたまフランスを訪れていた。そう、腕利きの外務官僚で、赤玉ポートワインの存在が日葡関係に及ぼす意外な影響について知らしめてくれた
三泊四日の短い旅路は、しかし事前の予想を大きく裏切り、極めて鮮やかな印象を彼に残すモノとなる。
(はて? …)
パリの街に入って早々、笠間は首をかしげざるを得なかった。
見渡す限り、あらゆる屋並みの窓という窓、玄関という玄関に、
(
いったい何の催し物かと訝しまずにはいられない。
幸いにして、笠間の経歴にはフランス日本大使館参事官も含まれる。
フランス語の技倆、培った人脈、何れもまだまだ健在で。情報源に不足なく、すぐに事情を呑み込めた。
窓口人民投票! プレビシット・ド・フネエトル! と教へて呉れた。私の若い頃身を寄せたボアの家なんかは五本も出してゐる。
人民戦線のレオン・ブルムが組閣したので、右翼を弾圧して、クロア・ド・フウなんかの反動組織を解散した。フランス人は一人々々が資本家でブルジョワだから、中産階級の憤懣は、やるかたないので、此の連中が触れを廻して赤色戦線の現政権に不満を感ずるものは、ここに真のフランス人ありといふ証拠に、窓口から国旗を出すべしと宣伝したのだ。吾も吾もと時ならぬ三色旗の陳列を見たわけである。(昭和十二年発行『東西雑記帳』5頁)
いっそ心憎いほど、ウィットの効いた抗議であった。
三枚舌のアーサー・ジェームズ・バルフォアがパレスチナに乗り込んだとき、アラブ人たちは彼を迎えるにこぞって弔旗を掲揚したが、それに匹敵する措置だろう。
(鶴見祐輔撮影、パリ遠景)
赤旗のもと大衆を煽動、ストライキやボイコットを繰り返し、都市機能を麻痺せしめ、ぶちまけられた混沌を眼下にインターナショナルを熱唱しては悦に入る。
人民戦線とはつまるところそんな手合いで、その力を背景に政権を握ったレオン・ブルムが筋金入りのアカであること、疑いを差し挟む余地がない。
――コミンテルンの走狗めが。フランスをこのままおめおめと、モスクワに支配させまいぞ。
そういう意志を如実に籠めた景色であった。
笠間はまた、パリ滞在中、ブルムに関してこんな話を仕入れてもいる。
ブルムはかのスタンダールの思想、作品についての権威で、いつかスタンダールの名言といはれる「女が二十三四にもなって、まだ処女だなんていふのは、凡そ意味がないことだ」といふのに共鳴した講演か文章がある。
これが議会で質問のたねになった。
その為めに内閣がつぶれもしなかったのは、三色旗を出した愛国者たちも、此の点ではブルムに同感したためかもしれぬ。(6頁)
過去は……バラバラにしてやっても……石の下からミミズのようにはい出てくる……
いみじくもディアボロが述べた通り。人間、下手に有名になると、何を掘り返されるか到底知れたものでない。
くれぐれも用心することだ。
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