大東亜戦争の激化につれて上野動物園で飼育されていた猛獣たちが殺処分を受けたことは、土家由岐夫の『かわいそうなぞう』等によって有名だが、同様の事態は欧州大戦当時のドイツに於いても起きていた。
貴族院勅選議員、大阪商工会議所会頭、稲畑勝太郎がそれを見ている。
この人は終戦からわずか一年後にドイツを訪ね、戦争によって変わり果てた各都市を巡歴しているが、その中にハンブルクも含まれていた。
ハンブルクには、かつて規模に於いて「世界一」を自任していたハーゲンベック動物園がある。
以前の記事でわずかに触れた、豹が産んだばかりの我が子を喰ってしまわぬように、暗室での分娩法を確立した、カール・ハーゲンベックその人の設立した園である。
(Wikipediaより、ハーゲンベック動物園、旧正面入り口)
この動物園を再訪した勝太郎は驚いた。あれだけいた動物たちが、たった三匹の猿を残してみな居なくなっていたのだから当然だ。以前彼の眼を愉しませてくれた豹も虎もライオンも、まったく影も形もなくなっている。
何が起きたのかと手ごろな係員に訊ねると、いよいよ驚愕すべき返答が来た。
喰ったのだと言う。
戦争が長期化するにつれ、食料が極度に欠乏した結果、ハンブルクの市民たちは猫も犬も鼠でさえも、市街に息づく動物達、その悉くを喰い尽くし、それでも足りず、ついにはこの動物園の猛獣たちにさえ手をつけてしまったのだと言う。
そこまでやって、それでも彼らは敗北した。
稲畑が、戦後ドイツの言論界を圧倒した、
「我々の敗因は、一に宣伝の、プロパガンダの下手さに依る。宣伝下手が災いして、気付けば思わぬ多数を敵に廻して戦う破目になってしまった。これに比べて連合国のやつばら共めは宣伝に妙を得ていたので、どんどん味方を増やし、陸海共にドイツを封鎖して、武器、弾薬、食料の道を断ってしまった」
という敗因論を全面的に肯定する気になったのは、まさにこの瞬間に他ならなかった。
悲惨といはうか、痛恨といはうか、よくもドイツ国民は、ここ迄辛抱したものであって、全く馬倒れ、剣折れて、どんづまり迄行って、致方なく連合国に降伏したのであります。(『時局大熱論集』285頁)
稲畑は当時の回想を、このような言葉で締めくくっている。
更に彼は筆を進めて、当時のドイツと現下――昭和八年――の日本の情勢を引き比べ、
日本国民は、幸にして敗北の経験を
と、明確に壮士論を戒めさえする。
昭和八年という、大日本帝国が国際連盟を脱退し、全権松岡洋右が英雄の如く持て囃されている、壮士論全盛の時節にあってこのような論を述べるには、よほどの覚悟がなければならない。
稲畑の信念のほどが窺える。
彼の危惧が見事に的中したことは既に書いた通りだが、だからといって稲畑は、まったく嬉しくなどなかったろう。
日本とドイツの類似点はこればかりでない。
敗戦間もなくの日本に於いて、最大の人気商品の一つに
もっとも商品はヒロポンではなく、専らコカインの方であったが。
こちらの様子は稲畑ではなく、秦豊吉こそが実見している。
彼の『丸木砂土随筆』に曰く、
敗戦後の東京が、ヒロポン時代であったとすれば、第一次大戦後ベルリンは、コカイン時代であった。(中略)ナイトクラブというと裸踊りばかり見せるのでなく、コカインを吸わせるのが、大きな商売であった。そういうのに案内されると、穴蔵から家の裏に入って、真暗な路地を回り回って、急に立派な部屋に出る。そこがコカイン部屋である。
コカインの愛用者の特徴は、酒の場合と同じように、好きな連中を招待して「コカインの夕べ」を催したがる。秘密に仕入れてきて「今晩の品は飛切上等だ」とか「正真正銘の保証付逸品だ」とか品評する。煙草好きが葉巻の批評をするようなものである。(『丸木砂土随筆』186頁)
それゆえ秦は、アプレやパンパンが巷にあふれ、ヒロポンが飛ぶように売れる乱れに乱れた東京を見て、
――敗戦国の都は、敗戦国らしく、芯の崩れかかった、本当の形になってきたようである。
と、彼らしい、ニヒリスティックな皮肉を籠めて書いている。
まったく、よくここから立ち直れたものだ。
ドイツの場合、「芯」の崩れ去った空隙に、アドルフ・ヒトラーが新たな心棒を通して復活せしめ、そして再び木っ端微塵に砕かれた。
では、戦後日本に芯をぶち込み、今日まで続く国家の基礎を築いたのはいったい誰であったのだろう。
敗戦直後から以後数十年にかけての政治史について、私を含めた現代人はあまりに無智だ。そろそろこの辺りを入念に掘り返すべき秋かもしれない。
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