「朝は早く、夜は遅く」――。これこそが、昭和十三年までの日本の商店のモットーだった。
鶏鳴暁を告ぐる以前に店を開け、草木の寝息を聞き届けてから漸くのこと暖簾を入れる。早朝から深夜までの超長時間営業。しぜん、従業員への負担は並大抵のものでない。
最も割を食ったのは「小僧」や「丁稚」の呼び名で知られる若い衆だった。朝から晩まで働いて、休みといえば正月と盆の二回のみ。
「これは人間の待遇ではない」
と、現代人ならば叫ぶであろう。事実、こんな環境で健全な発育なぞ期待できよう筈もなく、彼らの身体は青く痩せ、ともすれば幽鬼のようだった。
工場労働者に引き比べ、彼らの窮状がいまいち伝わっていないのは、やはり『ああ野麦峠』や『女工哀史』といったような代表的文学を持たないからか。宣伝の力の偉大さを思い知らされる限りであろう。
(Wikipediaより、旧・野麦街道)
とはいえ、雇い主も好きでこんな無茶を強いているわけではない。
従業員に重荷を載せて、呻吟する有り様に悦を覚えるサディスト揃い――商店主にそんなイメージを持って貰っては困るのだ。
彼らとて、ロクに客の出入りなく、下手をすれば売り上げよりも照明代の方が多く嵩みかねないような、そんな時間帯には店を閉めたい。ところが迂闊にそれをやると、「あそこの店は不勉強だ」と陰口を叩かれ、客の出入りが減るのである。
で、浮いた客足を吸収するのは、不利益を承知で人影まばらな時間帯に営業していた店というからたまらない。商売敵に負けたくなければ従来の業務形態を崩すわけにはいかず、こうなってくるともはや意地――それも極めて不毛な意地の張り合いの観がある。
畢竟、問題解決を図るには「官」の力を頼る以外に術がない。
そこで昭和六年に、東京呉服商同業組合が声を上げ、内務大臣宛てに「午後十時終業の法律を制定してくれ」といった趣旨の陳情書が提出された。
この陳情書は、連鎖反応を惹き起こす口火のような役目を果たした。東京魚商同業組合以下、雷同する者が次々に
政府の方でも厭はない。既に工場法が大正五年から施行されている以上、遠からずして商店にも同様の法律が必要になると予見して、大正末から調査会が出来ていた。ところへこの陳情書を奇貨として、その年の第59回帝国議会に早速のこと
「商店の閉店時刻限定に関する建議案」
が持ち出され、問題なく可決の運びになっている。
ここまではいい。ここまでは万事順調だった。
が、これより先は思いもかけず話が
東と西で人間の気質が違うのは、それこそ我が国上古以来の伝統であるが、まかさ
そうした意識差を面白いと受け容れた者に以前書いた下田将美が居るのだが、万人が万人、彼のような雅量を備えていたわけではない。
――拝金主義の大阪野郎め。連中はまったく、これだから。
憤りも露わに地面に唾を叩きつけた手合いの中に、作家の直木三十五も含まれていた。
言わずと知れた、「直木賞」の基となった彼である。
この人物の大阪評は、随分とまた手厳しい。以下、原文を引用する。一読すれば、おそらく「直木賞」に対する見方の上にある種の変化が起こるだろう。
大阪人は、目前の利益といふこと以外に、何も考へてはゐない。利益なるものは目前にあると同時に、もっと遠いところにもある。ある場合は、遠いものの方が遙に大きい利益であることがある。大阪に精神的なもの、或は理想がないといふことは、その遠い大きな利益を、いつでも見逃してゐるためである。例へば、昔からの鴻池住友といふやうなところは、いくらか大阪の面目を維持してゐるが、東京に於ける三井三菱浅野安田大倉といふやうな連中の大仕掛けな仕事に較べて、つまりいくらか高いところに目をつけた仕事に較べて見ると、悉く素町人の商売のみである。(昭和八年『京阪百話』375頁)
すこぶる切れ味のいい掻っ捌きよう、なんとも思いきった断定ぶりだ。
直木の筆は、行を改めるごとにどんどん烈しさを増してゆく。
東京の実業家は、文学なり思想なりが、娯楽としてある程度の価値をもってゐるぐらゐは知ってゐるが、大阪人はそれを有害なりと信じてゐる。それは現在のみならず、二十年以前にもさうなのであって、これは二十年来少しも進歩しない考へ方なのである。(375~376頁)
恐らく、大阪人にとっては、精神文化とは何であるかさへ分ってはゐないのであらう。従ってその価値も勿論理解されないのであらう。まして精神文化といふものが、多大の利益を与へるものであるなどゝいふことに至っては夢にも考へられないことなのである。(378頁)
このような観念の持ち主相手に、営業時間を短縮しろ、従業員の休みを増やせと説いたところで焼け石に水――否、寧ろ火に油を注ぐ結果にしかならないだろう。
現になった。
大阪からの突き上げを喰らった政府では、商店法制定に対して明らかに腰が引けてしまった。とどのつまり日本の商店は昭和十三年までズルズルと、旧態依然な営業を継続し続けることになる。
なんのことはない。民衆自身が、民衆の不利益を望んだのだ。輿論の声が如何に大きいからといって、それに唯々と服従するのが正解とは限らない。いやむしろ、そういう迎合政治は却って国を衰退に導く。その模範例としていいだろう。
福本伸行の最高傑作とも謳われる、『銀と金』のあのセリフが鮮やかに耳によみがえる。単行本7巻収録、第59話の
「今 いる政治家の中でもっとも民主的でない伊沢敦志が
私は好きです
なんせ
話が早いですから」
「フフ…
そうだよな
民主主義は時間がかかりすぎるよな
時間をかけて……
それでも決まればまだいい
決まらないってんだから話にならない」
このやり取りが。
さんざ紆余曲折を経た末に漸く日の目をみた商店法も、昭和二十二年、GHQのテコ入れのもと制定された労働基準法に飲み込まれ、ごくあっさりとその歴史的意義を終了させた。
わずか九年程度の寿命であった。
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