時事新報の記者であった下田将美は、しかしながら昭和七年、諸々の事情で大阪毎日新聞に移籍している。
言語、習慣、人情、食事――東西の相違は想像以上に多岐に及んで、屡々下田を面食らわせた。
とりわけ衝撃的だったのが、大阪人の値段交渉のしつこさだ。知人同士が電車の中でばったり顔を合わせた際の第一声が、
「なんぞボロイ儲けはおまへんか」
だということからも知れる通り、日常生活のことごとくを算盤勘定で割り切ってのけているだけあって、一銭どころか一厘でも得をするべく躍起になること尋常ではない。
(中之島公園)
ある船着き場で、下田将美が現に目撃した情景だ。出航までの時間を利用し、船客に果物を売りつけようと行商人がやって来た。
彼は大きく実ったスイカを手にとり、頻りにこれがどれほど優良商品かを喧伝している。
「なんぼや」
声を上げたのは、恰幅のいい一中年。「一円十銭」という行商人の答えに対し、彼は扇子をパチパチやりながら、
「高い、高い」
一円にまけろと大きな顔を押し出して言う。
むろん、行商人とてそう簡単には屈さない。斯くしてわずか十銭を巡り、大の大人が三十分もの長きに亘って、ちょっと聞いていられないほどの押し問答を繰り広げる運びとなった。
――宵越しの銭は持たねえ主義だ。
などと言って見栄を張る江戸っ子の性根に慣れきっていた下田にとって、これほど異様な光景はない。
三十分間責められ通しの目に遭わされても、行商人は決して引こうとしなかった。一円十銭という規定価格をあくまで厳守し、びた一文たりともまからない。
ここに至りて、中年は攻め手を変えることにした。大手門が破れぬならば、搦手を狙うまでのこと。諦めを知らず、どこまでもねちねちと粘着すること、もはやある種の腔腸動物を連想させるしつこさだった。
「わかった、その値段でいい」
白旗を上げるに等しい発言。
ただ、切って喰うのだから――と妙なことを付け足した。
「包丁を持って来い」
さも当然のようにのたまうのである。
冗談じゃない、遠くまで帰って包丁なんか持って来れるか、頼むからこのまま買ってくれ、と行商人が懇願すると、
「では包丁を持って来ない代りに十銭まけろ」
この交渉術の巧みさに、下田はいっそ舌を巻きたい気持ちが芽生えた。
もっともスイカを巡るこの談判は結局のところ不調に終わり、行商人は来たときそのままの重さの籠を担いで退散する破目になったわけだが。
(いったい何のために長々と、三四十分も押し問答を続けたのやら)
奇異の念に打たれる下田。
しかしながらまだ終わらない。
ちょうど入れ替わりになるように、今度は女のバナナ売りが籠を担いでやって来たのだ。
案の定、真っ先に声をかけたのは例の中年。素人目からも逸品とわかる、房の沢山ついたやつを指差して、またぞろ「なんぼや」と問いかける。
「六十銭」
と女は答えた。
「高い、高い」
判で押したように、先刻と同じことを言う。
五十銭にまけろと、引かさせる額まで一致していた。
やはりこの行商人も、そう簡単には屈さない。すると中年、それじゃあ半分、三十銭で買わせてもらおうと言うが早いか、やったことが凄まじい。
電光石火、ぱっとバナナに手を伸ばし、黒い染みのついた房を片っ端からもぎすてて、綺麗な房だけを残したやつを、大事そうに懐にかかえてのけたである。
(なんということだ)
下田将美、開いた口が塞がらない。
(関東なら、手が後ろに回るのではあるまいか)
三十銭を押し付けられた行商人は怨みがましい視線を向けたが、中年はまるでどこ吹く風で、扇子をパチパチやりながら、大股で船の方へと進みゆくこと、ほとんど勝利者さながらである。
(えげつないという大阪言葉は、こういう場合に使うのか)
納得を深めた下田であった。
(道頓堀)
東京で贔屓にしていた呉服店、「松阪屋」の番頭が、たまたま下田より三年早く大阪の店に替えられている。
後日、彼のもとを訪れて旧交をあたためるついで、船着き場の一件を持ち出すと、番頭は意を得たように深く頷き、
「実際わたしはこっちへ来た一二年と云ふものは、お客様に泣かされ通しになかされました」
縷々と思い出話を広げはじめた。
「早い話が店に並んでゐる反物一反でも安々とは買ってくれません。気に入ったのがあると、それを丹念に調べてどこかしらに云ひ分をこしらへます。ここに一寸
(現在の道頓堀)
日本人と一口に言っても、どうしてそう易々と、一筋縄でくくりきれるものでない。
地方に於けるこうした差異はどこの国にも多かれ少なかれ存在するものであり、また存在して然るべきとも考える。
私自身、甲州人と東京都民との間には明確な違いを感じているし、もしも甲州人が挙げて都民化したならば、それはひどく心寂しいことだろうと信ずるからだ。
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