生き物相手のお仕事だ。四十年も動物園に勤めていれば、眼を疑う突飛な事態に出くわすこととて一再ならずあるだろう。
「けれど、明治三十三年のアレはとりわけ群を抜いていたよ」
上野動物園の名園長、「動物園の黒川さん」こと黒川義太郎園長は、晩年人にそう語っている。
西暦に直すと1900年。
黒川が未だ一介の飼育員に過ぎなかったこの当時、上野動物園には牡牝二頭のイノシシがいた。
ところがこの四ツ足ども、種族は一致していても年齢の方によほどの開きがあったと見え、牝の若やぎに比べ牡の老衰甚だしく、とてものこと交尾・繁殖が期待できない。困った動物園は対策として、外部から恰好の年頃の牡イノシシを貰い受け、新たにあてがうことにした。
手続きは滞りなく進行し、春明け初めし弥生の候、ついに「新米」入居と相成る。
が、初日も初日、檻に入れられて数時間もせぬうちに、もうこの「新米」が問題を起こした。若いだけのことはあり、「新米」には随分のこと血の気が多い。己がテリトリーの内側に自分以外の牡が居る――敵意の有る無しに拘らず存在自体が既に許せなかったものとみえ、この邪魔な老いぼれを抹殺すべく攻撃を仕掛けていったのだ。
ところが老猪も退き下がらない。生殖機能は失くしても、男たるは未だ忘れていなかった。おのれ若僧生意気な、と言わんばかりに盛んに牙を打ち鳴らし、物凄い眼で迎え撃つ。
鉄格子を震動させて繰り広げられる猛獣同士の潰し合い。火を噴くようなその烈しさに職員たちは手をつけかねて、
――弱ったことになった。
ただ呆然と見守るばかり。
そのうちに、
(あっ)
と息をのむ瞬間が来た。
やはり年齢による体力差はいかんせん。「新米」の牙が、老猪の急所をとらえたのである。
少なくとも、黒川含む衆人たちにはそう見えた。
(やられた。――)
さてこそこれで決着か、自然界の掟は厳しいと言いさざめいて、噴きこぼれる血を想像し、顔を硬くする人間たち。彼らはイノシシの牙の威力をよく知っていた。出刃包丁並みの切れ味に、体重と速度がたっぷり乗った、あんな突撃を喰らっては、熊であろうとたじろぎかねない。
ましてやあの老骨が堪え得るなどと、その場の誰一人として思わなかった。
(……?)
が、その「思いもかけなかったこと」が、このとき起きていたのである。次第次第に、観客もそれに気付き始めた――自分たちは早合点をしていたのだと。
まず、いくら待っても老猪が倒れぬ。四つの足でシカと大地を踏みしめて、戦意もまだまだ旺盛だ。
反対に、「新米」の狼狽ぶりときたらどうであろう。鳴き声もどこか弱々しく、威嚇というより哀訴の印象が明らかに濃い。
それもそのはず、彼氏自慢の鋭牙ときたらその二つとも、どういうわけか付け根から大きく内側に
(いったい何が起きたのだ)
確かに目の前で見ておきながら、説明できる者は一人も居ない。
攻撃した側が破壊され、された側はピンシャンしている。まるで合気の実演だ。解説が欲しくば植芝盛平なり塩田剛三なり、その道の権威を呼んでくる必要があったろう。
若さにかまけて倨傲にふるまう若僧を、海千山千の老骨が練り上げられた技術を駆使して成敗いたす。
講談にありがちな筋書きだが、それを現実に、しかもイノシシがやるのだからたまらない。まさしく珍の珍たる事例であり、黒川の記憶に殊更深く刻まれるのも必然だった。
その後、この「新米」は口が閉じられないのだから満足にめしも喰えないという悲惨な目に遭い、職員たちが「強引な措置」を採ることにより一命だけは拾い得た。
「強引な措置」とは、すなわちひん曲がった牙を折ったのである。
五人がかりの大仕掛けな作業であった。
…まづ野猪を檻の片隅に押寄せておいて一人が鳶口を一牙にかけて、他の三人と力を合わせて更に格子のある方に引寄せ、牙が格子の外に出るやうになってから、一人のものは二貫目もある大きなヤットコを以てゴツンゴツンと牙を打ち、やっとこさと二本の牙を打ち折ってしまった。野猪も可哀想だったが、これは先輩たる老野猪に向って喧嘩を売った、謂はば身から出た錆でやむを得ないこととしても、今になっては無論ナンセンスめいた話だが、当時は吾々も相当苦心をしたものであったと黒川先生が私に語られた。(昭和十六年刊行、鈴木哲太郎著『動物夜話』82~83頁)
イノシシ肉は別に「山くじら」の呼名もあって、大正四年十一月から翌年一月の三ヶ月間、所謂「旬」のこの時期に三千頭もの臓腑を抜かれたイノシシが帝都に出荷されたというから、その味は一般的な都会人にも好まれたらしい。
それだけ狩ってもこの連中は未だ日本の野山にまんべんなく出没し、畑を荒らし、農家に電柵を張らせることを余儀なくさせる。たくましい限りだ。是非とも肉を賞味して、そのたくましさにあやかってみたいものである。
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