穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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五六〇万トンの行方 ―昭和十年、漁獲量―

 

 興味深いデータを見つけた。


 戦前、すなわち大日本帝国時代の水産業まつわるものだ。


 昭和十年、全国的な漁獲量の総計は、ざっと五六〇万トンに達したという。


 ちなみに最近、平成三十年度に於いては四四二万トン。技術の進歩、養殖の拡大、多くの規制、人手不足に高齢化、台湾・朝鮮・北方領土を失ったこと――諸余の事情を考慮して、おおむね妥当な推移なのではなかろうか。

 

 

(戦前、北海道、鰊の豊漁)

 


 しかし、さりとて、むかし・・・いま・・とで決定的に異なる点がひとつある。


 食用・非食用の割合だ。


 昭和十年段階で食用に供せられたのは総漁獲量のおよそ六割。残すところの四割は、主に魚粉や〆粕として畑の肥やしに使われた。ことイワシに至っては、二七〇万トンの漁獲量中、食卓に上せられたのはたったの二割。八割方が圧搾機に直行という、凄まじい偏りを呈したものだ。


「俺たちだって、べつにしたくてこんな風にしているわけじゃないんだよ」


 と、先人は言う。


「これが最善の利用法とは思っちゃいない。当たり前さね、皇国すめらみくにに不足しがちな大事な蛋白給源だ、なろうものなら食用化の徹底を図りたいとも。だが、水産物――魚介類というヤツは、どうしても陸産物と異なって、捕る時期や量を加減できない。おまけに極めて腐りやすい性質がある。『サバの生き腐れ』は伊達じゃないんだ」


 語り手の名は右田正男


 こと筆者わたしの知る範囲内にて、寒天の製法を最も詩的に描写してのけた人物である。
 曰く、

 


 テングサ、ヒラクサを母として生れた「ところてん」は、天然の寒冷に育くまれて「かんてん」となる。
 凩や氷雨は峰に遮られ、白雪の褥に静かに冷える山の懐こそ「かんてん」の故郷である。

 


 と。


 この一文が契機となって、彼の著作に手をつけだした。

 

 

(右田正男謹製、昭和十年、漁獲量図解)

 

(上の図中、「食用製造物」の内訳)

 


 右田は述べる、魚の冷凍保存というのは、この昭和十年段階に於いても技術として存在自体はするのだと。


「だが、高額たかい」


 なにぶん世に出て間もないゆえに、低廉化が進んでいない。


 日本全国津々浦々に必要設備を据え置くなんぞ夢のまた夢、よしんばそれ・・が導入されてる港湾だろうと、優先的に処理されるのはタイやマグロの高級魚。ニシンやイワシの安魚なぞ後回し――どころではない。「かかる経費に見合わない」との理由から、仮にどれだけ余裕があっても到底処理してもらえない。イワシ一匹を販売して得る利益より、イワシ一匹を冷凍するコストの方がより重い。だからやらない、まことにお寒い現実だった。


 結局万事カネである。そろばん勘定の一致こそ、すべてに優先されるのである。わかりやすくていいではないか。収支の釣り合いが取れない内は、ニシンやイワシがいくら大漁だろうとも、「塩漬にしたり、干物にしたりして出来るだけ食糧とするやうにし、その残りは〆粕にして腐敗を防ぐといふのが定石」なのだ。その光景が、たとえどれほど「有志」らの、もったいない精神を疼かせようと。

 

 

(戦前、樺太、鰊粕製造所)

 


 人類が天賦の智能をいよいよ発揮し万物の長となる基の出来たのは、おそらく食物を保存することを覚え、その日の食を漁るために全力を注ぐ必要がなくなってからのことであらう。こんな古い古い大昔のことをいはずとも、食糧保存の重要なことは今に於てなほ変わらない。変らぬどころか、二十億の人類が数十に分れて各々国家を作り、互に虎視眈々とし、又国内に於ては都市のやうな比較的狭い地域に人間が密集してゐる今日にあっては、食糧の保存は愈々重大な意義を持ってゐるのである。原始時代には食糧の保存は人類が他の動物に勝つに役立った。現代に於ては国家の安寧秩序を保つために必要となったのである。(昭和十九年『水産と化学』)

 


 右田正男の文章は、やはりつくづく読み応えがある、名文である。理学博士でありながら文筆家としても一流だ。稀有な資質といっていい。彼は独自の哲学を持ち、そこから湧き上がる信念に身を貫かせた漢であった。


 かかる信念に基いて、より効率的な食糧保存の方法を右田は模索し続けた。


 それがどの程度まで実を結んだか。興味は尽きない。私はまだまだ、趣味に飽かずに済みそうである。

 

 

 

 

 


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