震度七は何物をも逃さない。
東京帝国大学の象徴たる赤門も、大正十二年九月一日、大震災の衝撃に、無傷で耐えれはしなかった。
無傷どころの騒ぎではない。木ノ葉よろしく瓦は落ちるし、土台は東に傾くし。おまけにその状態のまま長くほっぽかれた所為で、草は生えるわ朱は剥がれるわ、目も当てられない悲況に堕ちた。
将軍家の姫君を、加賀百万石前田家に嫁入りさせた際に於いての「引き出物」、由緒正しき持参門とて、儚や幽霊屋敷も同じ、浮世の無常を物語る、格好の
散々たるその落魄ぶりを、
「赤門と云へば東京帝国大学の名称よりずっと通りのいゝあこがれの的であったほど有名であったが、初めてこの門を見たものは、なあんだこれが赤門かと二度びっくりするほどうす汚いものである」――と、例の『読売新聞』なぞは、またぞろ手ひどく書いている。
そうした市井の風評に、たまりかねたという次第でもなかろうが。
「そろそろアレを修復せねば」
「このまま放置は出来まいて」
と、必要性を説く声が日を追うごとに増えてゆき、討議が行われた結果、めでたく大正十四年、予算が下りて修繕工事と相成った。
工事計画――「化粧直し」の詳細を、再び『読売』から引こう。
「門は外形をそっくり昔のまゝに改修し、瓦も古い時代のものは三分の一より役に立たぬから総て京都産を用ひ、外から見えない部分は、鉄筋コンクリートにしたり頑丈を主眼にして改修する、今年一杯に終えたところで時機を見てうるしを塗る予定でこの方は朱塗りがなかなか難しいもので、塗る季節もあり三十遍も塗るのだから、第二期工事として
形あるものはいつか壊れる、だがしかし、真実価値あるものならば、新たな形で甦る。
念の入ったことだった。
――以上、前回の補遺として、ちょっと添えておきたくなった。
蛇足ついでに私事を語ると、筆者は生まれてからこっち、この眼で直に赤門を拝んだ
あの一帯には本郷古書店街とかいって、神保町には及ばずとても早稲田の方には後れを取らぬ古本屋の密集地帯があると聞く。
蓋し興味をそそられる。いずれ訪ねてみたくはあるが。すべては花粉が、春を呪いの季節に変えた忌々しい公害が、
嗚呼、洟に思考回路が冒される……。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓