穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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午年、午の日、午の刻


 案内状が舞い込んだ。


 同窓会の開催を報せる趣旨のものである。


 一九三〇年のことだった。一八七〇年生まれの戸川秋骨の身にとって――正確には一八七一年三月の「早生まれ」ではあるのだが、本人が「自分は一八七〇年の生まれだ」と繰り返し主張するがゆえ、ここではそれに従おう――、このとしは丁度六十歳目、還暦という人生の大きな節目に相当たる。


 それにかこつけ、久方ぶりに小学校のクラスメイトで集おうぜ、わっと騒いで、旧交を温め合おうじゃねえか――と、つまりはそんな誘いであった。

 

 

 


 聖書の登場人物で誰が一番好きかと問われポンテオ・ピラトと即答し、十二使途には「耶蘇の殺されたのは気の毒といへば気の毒だが、その為めに今日の耶蘇教が立派に成立した。耶蘇が殺されなかったら、あのガラリアの漁夫や、収税吏に何が出来たらう云々と、蓋し辛辣な評を贈った戸川秋骨のことである。


 まずまず名うての英文学者で、翻訳業も能くやりながら、自分で修めたその道に、「新聞で一番わからない、従って興味を感じないものは、相場の欄であるが、それに次いでは文学論の欄が私にはわからなく興味もない」と、つっけんどんな態度をとって憚らぬ、筋金入りの偏屈漢だ。


 当然、還暦同窓会のお誘いも、素直に受け取ったりしない。きっちり一言、

 


「どうして野蛮なチベットあたりから来たらしい干支が、古い日本人の心を、そんなに強く支配して居たのかわからない」

 


 毒づくのを忘れなかった。


 まあ、こんな悪態を吐きながら、いざ当日を迎えれば、ちゃんと盛装した格好で受付を済ます戸川の姿があったわけだが。

 

 

秋田県、湯津の馬風呂。昭和五1930年は午年である)

 


 会場内には懐かしい顔がぞろぞろと。


 ――貴様はちっとも変らんなあ。


 とか、


 ――けったいな爺ィになりおってからに、この野郎。


 とか、お定まりの口上を、しかし唯一の喜びを籠めて盛んに交換し合ってる。


 わけてもとりわけ目立っていたのは、やはり伊藤博だった。


 字の並びから、おおよその素姓は察せよう。


 然り而して、明治の元勲、伊藤博文の伜であった。

 

 

Hirokuni Ito 01

Wikipediaより、伊藤博邦)

 


 息子せがれといっても、直接的な血の繋がりはべつに無い。


 いわゆる養嗣子とする為に、井上馨の兄夫婦から貰い受けた児であった。


 まあ、その辺の事情の詮索は措くとして。――とまれかくまれ伊藤博文の後継ぎと戸川秋骨は奇遇にも、同窓の関係だったのである。


 還暦を機に、数十年越しの再会を迎えた。


 その際、戸川の心中に、どんな思念が湧いたのか。以下が即ち、詳細である。

 


「伊藤さんは私の小学校の同窓である。時は明治十二三年の頃で博文公がまだ工部卿で、葵坂の官邸にまだ居られた時代であったところから、私は当時そこへ遊びに行ったこともあった…(中略)昔は鬼ごっこで、きれいな縮緬の羽織を汚い手で、ひっつかんだものだが、今は全く雲上の人、此方は下界の一老書生、この辺で一つ栄枯盛衰を歎いて見たいのであるけれども、さて歎いて見るほどの憤慨も私にはない。それほど私は無気力なのだ。ただ案外にも伊藤さんが細節にとらはれず、福引の際の如きは、みずから立って、エー、……番はどなた、……番はありませんか、などと周旋までされたのはうれしかった」

 


 戸川秋骨、知っていたのか。つまり吉田松陰が、


「俊輔、周旋の才あり」


 と、その教え子を褒めて発した一言を――。

 

 

松下村塾

Wikipediaより、松下村塾

 


 故意か、それとも偶然の一致か。いずれにせよ、この眺めは悪くない。香しき人間風景だった。

 

 

 

 

 


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