穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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昭和五年の文士たち


 清廉居士、糞真面目、単純馬鹿、自粛厨、野暮天、潔癖症的正義漢――。


 呼び名は多岐に及ぼうが、ここでは敢えて「確信犯予備軍」と、そういう区分けをしてみたい。


 実に厄介な連中だ。


 昭和五年の七月である、久米正雄が大衆向けに麻雀指南を施す運びと相成った。ラジオを通じて、電波に乗せて、『麻雀と人生』と銘打った斯道の講義を試みたのだ。

 

 

 


 宣伝に凝っただけあって、前評判は上々である。


 放送開始時刻たる、六日の午後六時にちゃんとラジオの前に座れるように多くの中年男性が予定調整に勤しんだ。


 ところが前日、すなわち五日午後八時。局の電話が鳴り響き、応対すればどうだろう。


「久米の野郎を殺してやる、首を洗って待っていろ」


 蓋し物騒な脅し文句を吼え立てられたではないか。


 殺意の由縁は案の定、二十二時間後の麻雀講義にこそ在った。

 


「もしもし放送局ですか、いったい放送局の当事者はこの不景気を知ってゐるのか、失業者が巷に溢れ陰惨な出来事は毎日の新聞に載ってゐるではないか。国家の力位では容易に解決の道が見当らないといふ大きな社会問題が横はってゐるのに、糞面白くもない、安価な娯楽一点張りのプログラムを作ってばかりゐる、久米とやらの麻雀と人生なんて、わけの判らぬ話なんか放送を止めてしまへ、おれは社会人を覚醒させるためにまづ久米を血祭りにあげるつもりだ」

 


 上がすなわち脅迫の、一部始終に他ならなかった。

 

 

Mr.Kume Masao - New York - 1929 - Suzuki Rakan Seisaku

Wikipediaより、久米正雄

 


 局では直ちにこれを通報。警視庁は事態を重く視、犯人を捜す一方で、久米の下には私服警官を数名派遣し、密かに護衛させながら放送局へと入らしめている。


 応対者の記憶によれば、犯人の声は明らかに、若い男のものだったとか。


「浮世の事は卑しくも複雑也。而して青年の心は高尚にして単純也。故に青年の心と浮世とは、常に相衝突す」――大町桂月の嘗て明かした誘引作用。若人の血のくるめきの、正に典型例だった。


 世界恐慌のど真ん中、空前の不況に晒されて、一日平均五人以上が鉄道往生いざさらばと肉片になる御時勢だ。訴えんとするところ、確かにわからぬでもないが、それにつけても頭が固い。


 水清ければ魚棲まずである。廉直が常に最適解とは限らない。一九一七年、西部戦線塹壕でさえジョークは絶えなかったのだ。一切の娯楽を断たれては、一週間と正気を保てるものでない――と、日露戦争の従軍者も語ってくれたではないか。だから陣中、角力をやったり女形おやまになったり、あの手この手を尽くした、と。

 

 

(第一軍陣中相撲大会の様子)

 

 

 ここは一丁、

 

「競馬はスポーツと賭が交錯するところに他のスポーツにない魅力が生ずるのだ、日本の競馬ファンはいま正味二万、このうち一万人は僕みたいに全国十一ヶ所の競馬場を春となく秋となく催を追って渡り歩く競馬マニアだ、その二万人が一年間に貢献(?)する額がまさに一千万円、すると一人あたり年五百円づゝは完全に損してゐる。しかも一度百円儲けると前に三度にわたって六百円損したことをケロリと忘れてしまふほど爽快な気持が湧く、そこが競馬マニアには忘られぬ身上だよ」――菊池寛の説くバクチの妙味、「ギャンブルは、絶対使っちゃいけない金に手を付けてからが本当の勝負」とのたまったおとこの気迫を味わって、少しは心にゆとりというのを確保すべきであったろう。

 

 

 

 

 


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