デモクラシーの掛け声がさも勇ましく高潮する裏側で、人間世界の暗い業、望ましからぬ深淵も、密度を濃くしつつあった。
『読売新聞』の調査によれば、改元以来、日本に於ける離婚訴訟の件数は、年々増加するばかりとか。
大正四年時点では八百十三件を数えるばかりであったのが、
翌五年には九百五件に上昇し、
次の六年、九百五十一件にまで跳ねたなら、
七年、とうとう千百四十二件なり――と、四ケタの大台を突破して、
更に八年、千二百十八件を計上と、伸長にまるで翳りが見えぬ。
(タバコを吸う夏川静江)
なお、一応附言しておくと、上はあくまで訴訟を経ねば別れ話が纏まらなかった事例のみの数であり、離婚そのものの総数は、更にこれから幾層倍するのは間違いないことだ。
現に二〇一九年のデータを参照してみても、二十万八千四百九十六件の離婚中、裁判手続きを経たものは五千四十八件と、ほんの一滴程度に過ぎない。
大正時代の『読売』は、更に一段、掘り下げて、訴訟の多くを占めるのが、妻が夫を訴えるケース、「其の訴訟には何れも
おまけにこの現実は、「権利思想が女に普及した事を立證するものであらう」と、歓迎ムードを漂わせ――。
まこと笑止な、軽率極まる盲断だった。
(読売新聞社)
そこをいくと平塚らいてう女史などは流石にも少し慎重で、
「自由恋愛にせよ、自由離婚にせよ、それが誤りなく実行されるにはそれに先だって、人は知的、並びに情的の教養、訓練を何より必要な準備として経なければならないといふことは、いつも記憶してゐなければならないことであります」
と、常識的な訓戒を世間に呈してくれている。
まあ、そんな「準備」など、現代令和社会とて、完備・完了しているなどとは口が裂けても宣言できないザマではあるが。
(フリーゲーム『操』より)
なんだかどの時代を見ても、男女関係というやつは常に悶着の連続であり、闘いの火種たらざるはない。
「平和とは瞞してゐる間か、瞞されてゐる間の現象だ、そのことを一方が発見するか自覚するかしたら破滅だ」。――真渓涙骨のこの言葉。
ほとほと真理であったろう。人間の本質は闘争なのだと、痛感するばかりであった。
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