穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ナイフ一本、返り討ち


 研師にして剣士。


 どちらの手腕うでも紛うことなき一級品。


 そのまま時代劇中のキャラクターに具せそうな、――山尾省三はとかく刃物の扱いに熟達したる者だった。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より、刀鍛冶)

 


 米寿を超えてなおも現役。髪は落ち、皮膚は弛んで白髭をちぢれさせようと、指先の冴えは失わぬ。鳥取県米子城下の四日市に居を構え、農具や庖丁等を手入れし日々の稼ぎに充てていた。


 職人として好ましき老い方であるに違いない。「生涯現役」、ほぼほぼ理想に近かろう。


 そういう山尾省三が、どうしたわけか、あるとき人を刺殺した。


 正確な日付を示すなら、昭和五年の三月二日。


 相手は若齢二十七歳、山尾省三の半分どころか三分の一も生きてない、戸田菊造という男。


 刃渡り五寸のナイフ一本が凶器であった。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より)

 


「いったい何の冗談だ」
「逆だろ普通、常識的に考えて、逆であるべきじゃないのか――」


 噂はたちまち県下一帯に広まった。


 なにしろ構図が妙である。


 祖父と孫ほどに年の開いた二者間に於ける殺人事件。しかも殺ったのは血気盛んな若者でなく、枯れ朽ちてゆくばかりの老人の方。


 話題性は十二分、刺激を求める大衆心理に如何にも迎合しそうでないか。


 現にした・・鳥取一県にとどまらず、本件は全国紙にても取り扱われることとなり、わけても『大阪毎日』「九十爺の人殺し」なるセンセーショナルな見出しを付けて書き立てた。


 いま試みに記事本文を引用すれば、

 


米子市四日市町刀剣研商山尾省三(90)は昨年秋自宅附近の街頭で人参薬を売ってゐた米子氏博労町戸田菊造(27)の言葉がをかしいと笑ったのが元で絶えず戸田と口論をつづけてゐたが二日午後一時ごろまたもや市内尾高町で喧嘩をし山尾が一たん帰宅すると戸田が山尾の家に押かけ殺してやるから表に出ろと引ずり出さんとしたので――ざっとつらつら窺う限り、被害者戸田もあまりガラのよい奴でない。このケースだと、正当防衛は成立するのか、どうなのか。微妙なラインであったろう。夜分家中のコソ泥を一刀両断しようとも無罪になった頃だから――「山尾は逆上し戸棚にあった刃渡り五寸余のナイフを取るが早いか戸田の脇腹、腹部等三ヶ所に斬付け殺害した」云々と。

 

 

Yonago Station01bs4592

Wikipediaより、米子駅

 


 いやはや刃物はおそろしい。


 使い手に心得さえあれば、青年・老人の体力差などまるで問題にならないと、如上の件が奇しくも證明してくれた。喧嘩で刃物を出されたら即座に身を翻し、全速力で逃げろという忠告は、やはり真であるようだ。


 ところで山尾省三儀、昭和五年1930に九十歳ということは、生まれは天保十一年1840かその前後。


 黒船来航以前どころか、アヘン戦争の火蓋が切られたばかりでないか。

 

 

 


 江戸時代の空気を吸って人となった者である。愚弄するには、あまりに危険な相手であった。

 

 

 

 

 


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