嘗て戸川秋骨は、日本人を「米の飯と、加減の宜い漬けものがなくては、夜が明けない」民族なりと定義した。
実に単純で、わかりよく、反論の余地のないことだ。
筆者としても戸川の論を首の骨が折れるほど力強く肯定したい。
美しく炊きあがった銀シャリには一種の威厳が付き纏う。
この感動を共有し得る者こそが、つまるところは日本人ではなかろうか。
福澤諭吉先生が保健のために日々嗜んだ運動は、散歩に居合い、それに加えて「米搗き」だった。本人の言葉を藉りるなら、「宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半許り芝の三光町よりして麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散策し、午後は居合を抜き、又約一時間米を搗き、而して晩餐の時を違へず、雨降るも、雪降るも年中此日課を繰返す」だ。同時代の誰より早く学生の体育に留意して、日本で初めて鉄棒、シーソー、ブランコを、自身の塾の敷地内に設置した、福澤らしい習慣だろう。
豊葦原瑞穂の国、大和民族のDNAはたわわに実った稲の穂を敬うように出来ている。
さてさてめでたきことである。
戸川秋骨は日本人の食文化を讃美している。米の御飯に、漬物に――後には更に魚を加えて完全とした。「刺身のやうな、色から言っても綺麗な、そして清潔な、見るからに心持の良いものは、先づ喰ひものとして類のないものであらう。吾々はそれを味ひうる幸な人種である。若葉、ほととぎす、而して初鰹、如何に生き生きして鮮明に、また自然に近いものであらう。瀟洒な吾々の心持はその内に遺憾なく言ひあらはされて居る」云々と。
ところがこの、あるいは
「支那料理なるものは、随分悪るもの喰いのそれだと思ふ。これが燕の巣で、それが鱶の鰭で、なんて普通の料理にも変なのが出て来るが、何も強ひてそんなものを選んで喰はなくても、普通のものを、うまく喰はせる事が出来さうなものだ、とそんな事も考へられる。君子は庖厨を遠ざける、なんて教訓のあるのに、献立の終りに近づいた頃に、鳥類の料理が出ると、料理人だか、給仕だかが、その鳥肉は、この鳥を調理したので御座い、とばかり鳥の頭か何かを、掴んでもって来て、客に見せる。妙な事をするものだと思ふ」
果たして「妙な事」として、済ましていいのか、どうなのか。
第一不衛生だろう。今は流石に、こんなあくどいパフォーマンスはなかろうが――
なにぶん味覚の都合上、滅多に中華料理屋に入った
日本人とはよほど衛生観念の違う民族としか思われず、それを念頭に置く場合、安易にこちらの常識で推断するのは危険であった。
他人とは、疑ってかかるべきだろう。特に相手が歴史・風俗を異にする、外国人なら尚のこと。
「『親善』といふ言葉は、朝鮮でも支那でも嫌はれる、親しみ善くするといふのだから、これほど善い事はないやうに思はれるが、それが案外嫌はれて、日支親善などといふと、気のきいた支那人は皆ぞぞ毛を振る」――と、訝しんだのは楚人冠。
こうまで顕著に前提からして喰い違うということを、弁えておくべきなのだ。
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