偉人が語る偉人伝ほど興味深いモノはない。
「評するも人、評せらるるも人」の感慨をとっくり味わえるからだ。
福澤諭吉は『時事新報』の記事上で、伊藤博文を取り扱うに「国中稀に見る所の政治家」という、きらびやかな言を用いた。「政治上の技倆を云へば多年間政府の局に当りて自から内外の事情に通じ、或は失敗もし或は成功もしたる其間に、あらゆる政界の辛酸苦楽を嘗め盡して今日に至りしことなれば、事の経験熟練の点に於ては容易に匹敵するものを見ず。殊に日本の憲法制定に参して最も力あるの一事は内外人の共に認むる所にして、其功労は永久歴史上に滅すべからず」云々と。
べた褒めである。
満艦飾といっていい。
まるで鳴りやまぬ喝采だ。
明治十四年の政変で拗れたとされる両者の仲も、とどのつまりは「時」が癒したらしかった。少なくとも福澤諭吉の態度には、軟化というか、幾らかの歩み寄りが見て取れる。
民本主義の提唱者、大正デモクラシーという巨大な
共に語るに足る
「一代の政治的天才伊藤公はあの頃から段々自由主義の政治家となり掛けて居た。憲法創設の当初、彼は所謂超然内閣論を固執し、議会に対しては飽くまで高圧手段を以て臨んだ。
星新一も見逃せぬ。
ショートショートの雄として、おそらくは向こう百年ずっと誰にも越せぬ高みにたたずむこの人は、ノンフィクションも実は能くした。
その著『明治の人物誌』中で伊藤公を語るに際し、星新一はこれこの通り、
「私は、世の中には短く要約できないものはないという意見の持ち主だが、伊藤博文にはそれが適用できない。こんな人間が存在したのか、である」
見ように依っては「兜を脱いだ」、脱帽とも取れなくもない、異様な告白をやっているのだ。
更に読み進めてゆくと、
「明治期の日本という、どこへ暴走するかわからないしろものを、彼は巧みにハンドルをあやつり、ブレーキをかけ、安全運転をやってのけた。みごとなものである。それにしても、こんなにも描きにくい人間は、めったにいない。
しかし、政治家はこうあるべきなのだろう。波乱万丈の人物は書くほうも読者も楽しいが、そんなのに政治をやられた場合、大衆はおおかた好ましい状態ではないのだ」
福澤、吉野、前二者と、やはり同趣旨の太鼓判が押してあるのが見出せる。
伊藤博文、鍍金にあらず。真に一流の人物だ。
「大日本帝国皇帝陛下
神聖叡武遠く東洋の平和を慮り、重臣大勲位侯爵伊藤博文を統監として弊邦政務の指導啓発に任ぜしむ、而して今春着任以来画策せる施政の改善により、従来の弊政を一掃し、面目を一新したるは、朕の深く欣ぶ所なり、尚将来益々弊邦を扶植誘掖して其効果を収めしめんことを」
おっと、しまった、変なのを紛れ込ませちまった。
これは明治三十九年、韓国皇帝・高宗が明治大帝に宛てた親書だ。
然り、高宗。ジョージ・ケナンに「朝鮮王は朝鮮人独特の陰謀性を持っている上に、赤子の如く無神経で、ボーア人の如く執拗で、支那人の如く蒙昧で、そうしてホッテントット人の如く虚栄心に満ちた男だ。伊藤公のような公正を尊ぶ文明流の政治家は、きっとこの無節操な利巧者に篭絡されるに違いない」と危惧された、まあ札付きの彼である。
(李王家博物館)
これだけ媚びた感謝状を送っておいて、その裏側ではハーグ密使事件のような陰謀回しに齷齪していたわけだから、ケナンの予想は過たず的を射ていたわけだろう。
そりゃあ伊藤博文自身、
「詭言妄語些かの信義なきは韓国上下の常なり、今回の事件に付韓国を合併すべしとの論あるも合併の必要はなし、合併は却て厄介を増すばかり何の効なし、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべきなり」
朝鮮人に半ば愛想を尽かしたのもむべなるかなだ。
顔をメタクソに潰された上、そのうえ更に安重根の大馬鹿野郎にたったひとつの
(Wikipediaより、暗殺直前の伊藤)
接触するものすべてに厄が降りかかる。活きた大凶そのものだ。つくづくあの民族と関わるべきではないらしい。
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