穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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十和田湖、三年、二千円


 こんな企画を思いつくのは何処のどいつであったろう。


 少なくとも和井内家の人間ではない。


 昭和の初め、結構な数の潜水夫らを駆り催して、十和田の湖底をしきりに浚ったやつがいた。

 

 

十和田湖

 


 賽銭の回収が目的だった。


 そういう習俗があったのである。銭や米を包んだ紙を、十和田湖めがけて投げ入れて、沈んでいく様子によって吉凶を占う、というような――。


 令和の世にも「おより紙」の名の下に根強く残る信仰である。


「その根強さを、正確に知りたい」


 と、好奇心を疼かせた何者かが居たようだ。


 試みは三年に亙って継続された。


 が、十和田湖の底は浅くない。


 相当深い。最大深度326.8m、これより深い湖は、日本国では北海道の支笏湖と、秋田県田沢湖以外に存在しない。第三位ということである。光の届かぬ真っ暗な淵もザラにあり、回収作業はそう捗々しく運ばなかった。

 

 

十和田湖 九重浦)

 


 それでもなお、潜水夫らの類稀なる努力に依るというべきか。


 三年かけて、彼らはのべ二千円分の硬貨を引き揚げ、積み上げた。現代の貨幣価値に換算して、ざっと百二十万円ほどである。多いと取るか、少ないと取るか。


 山本実彦は前者であった。

 

 改造社の創業者であるこの人物は、二千円という数字をまず「一厘銭なら二百万枚」と可能な限り細分し、「あくまで理論上ではあるが、最大で二百万人が自分自身の運命を、この青い水に訊いたのだ」と、妙な感心の仕方をしている。


 更に続けて、

 

 

 この現実をみせつけられて、自分としての人生を、自分の生活を、深く内省しないわけにはゆかなかった。ここに詣ずる東北の人々は、関東や、関西のひとびとのやうに、自然にめぐまるるものが少い。であるから、科学を駆使して自然を克服するドイツ人の行った道を行かなくてはならぬと、私は考へざるを得なかった。

 


 とも。(昭和九年『小閑集』)

 

 独特な感性を宿しているのは疑いがない。


 あれだけの出版社を興すには、やはり強烈な個性が要るのか。

 

 

Kaizo-sya 001

Wikipediaより、銀座改造社ビル)

 

 

 ところで回収された二千円は、その後どうなったのだろう。


 費用に見合うわけもなし、いっそきっぱり未練気もなく十和田神社玉串料に全額奉納したならば、美談として語り継がれる余地もあろうが。このあたりの機微につき、山本実彦はなんの回答も与えていない。

 

 

 

 

 


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