――あのとき神風は吹いていたのだ。
そう叫ぶ者に出くわした。
むろん、
昭和二年六月十五日発行、雑誌『太陽』増刊号で文学博士・村川堅固が力いっぱい吼えていたもの。
彼の主張するところ、その筋道をなぞってみると、なるほど確かに一定の理がなくもない。
あのとき――すなわち幕末維新。開闢以来、もっとも激しく日本列島が揺り動かされた十数年間。頼朝、あるいは清盛以来、七百年近く続いた武家政権の終焉と、一君万民思想に基く新体制への切り替えが、この短期間中に一挙に成し遂げられたのだ。そのあわただしさが言語に絶するのも当然だろう。
しかしながらちょっと視線を動かすと、「騒がしい」のは日本列島のみでないとすぐ気付く。
ペリーが浦賀に来航し、三百年の眠りを醒ました嘉永六年、遠く欧州の天地ではロシア人どもがその本能たる南下衝動に従ってオスマントルコを略せんとしている。この事態を受け、英国はその世界政策上の都合から、翌年にはフランスを誘いロシアに対し宣戦布告。ナイチンゲールの印象を永世不抜のものとした、クリミア戦争の開幕だった。
(Wikipediaより、クリミア戦争・セヴァストーポリ陥落)
更に続いて安政五年、井伊直弼が「大獄」の名で以って知られる例の粛清を発動し、国内を戦慄させていた時分。今度は地中海が賑やかだった。
サルディニアが中世以来の宿志たる、イタリア半島統一の夢を今回こそ達すべく、ナポレオン三世と結託してオーストリアに宣戦布告。その目的の大部を達しイタリア王国が呱々の声を上げたころには、まるで入れ替わりでもするかのように、北米大陸が真っ二つに割れ史上最も血腥い内戦状態に陥っていた。
世に云う南北戦争である。
欧州の火の手もまだまだ
元治元年、デンマーク戦争。
慶応二年、普墺戦争。
そして大帝陛下が即位なされた明治元年九月には、スペインの地で革命が突発、普仏戦争の導火線に火がつく次第となっている。
(「統一の英主」ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂)
――要するに。
と、以上の経過を踏まえた上で、村川堅固は語るのだ。
要するに多事多難な幕末維新、外部の魔の手が最もつけ入り易いころ、しかし狼心を抱く西洋諸国はお互いの肉を
かやうに欧米各国が、何れも自国内部の事に忙しい際に、我国の維新が行はれたことは、実に我国の幸運であって、若しこの維新が十年遅れたとしたら、列国は我内紛に乗じて、之に干渉する余裕がよほど生じていたので、そんな場合でも、我皇室の権威と我国民の愛国心とは、外来の勢力を排斥し国難を切りぬけ得たことは疑はないけれども、それがために、明治新政による国内の発展は余ほど妨害されたことゝ思はれる。(7頁)
これこそ天祐中の天祐、伊勢の神風の再来なり、と。
現に見よ、列強の植民地政策は、日本の国内経営が漸くのこと著についた一八八〇年以降から再度目覚ましく動き出しているではないか。
仏国チュニス(明十四年)マダガスカル(同十八年)安南(同十七年)を保護国とし、英国はアラビ・パシャの叛を鎮めてエジプト管轄の権を得(同十七年)ビルマを併せ(同十九年)ドイツは一八八四年から、世界政策に着手し、アフリカに於て、西南アフリカ、カメルーン、トゴランド、東アフリカを取り、又太平洋方面では、英国和蘭とニューギニアを分割し、ビスマルク諸島(明十七年)マーシャル群島を取って居る(明二十年)。(8~9頁)
まさに枯野に火を放ったが如き観。
一瀉千里と呼ぶに足る、この侵略の逞しさはどうだろう。否でも応でも村川に、説得力を見出さずにはいられない。いやしくも維新の成功にあやからんとする者は、それが千載一遇の、世界史的好機会に支えられたものだったということを、片時も忘れるべきではないだろう。
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