穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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意外録


 原書に触れろと、大学で教授に訓戒された。


古事記』でも『徒然草』でも『五輪書』でもなんでもいい。教科書で名ばかり暗記して知った気になっている名著、学生の身である内に、それらを可能な限り読め。自分の瞳と感性で、独立の評価をててみろ、と。


 正直教授の顔つきも朧と化して久しいが、この言葉だけは今でもはっきり思い出す。


 なるほど、と頷かされる局面が屡々あったからだろう。


 たとえば石川啄木が、

 


「小生は日本の現状に満足せず。と同時に、浅層軽薄なる所謂非愛国者の徒にも加担する能はず候。在来の倫理思想を排する者は、更に一層深大なる倫理思想を有する者なかる可らず。而して現在の日本を愛する能はざる者は、また更に一層真に日本を愛する者なからざる可らず

 


 こんなことを言う人間だとは、実際その著を開くまで完全に想像の埒外だった。

 

 

Takuboku Ishikawa

Wikipediaより、石川啄木

 

 

 伊藤博文の遭難を、

 


「新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり」


「公今や亡焉なし。吾人は茲に事新しく公の功労を数ふる程に公を軽視する能はず。公を知らざる者は日本人にあらず。然り。公は嘗て其八方美人的と決断なきとを以て、一部の批評家より批難せられき。然れども明治の日本の今日ある、誰か公の一貫したる穏和なる進歩主義に負ふ所、その最も多きに居るを否むものぞ

 


 こうまで烈しく痛惜するとは、まさか夢にも。


 山芋が鰻に変化かわるのを見てしまったほどの驚きである。


 似たような衝撃を、明治三十七年五月の山路愛山も味わったらしい。


 日露戦争真っ只中のこの時期に、彼は思うところあり、日本を離れ韓半島を旅行した。

 

 

朝鮮半島、長寿山)

 


 十日ばかりの短い旅だが、この経験は彼のそれまでの認識を決定的に塗り替えてしまう威力があった。


 本人の紀行文に曰く、

 


「僕の韓国に来らざるや韓人の猶ほ自ら振ひ、自らつよむるの余地あるを信ぜり。足一たび韓国を履みて後は此信仰は一変せり。韓人の自ら振作するを待つは殆んど枯木の芽を出すを待つに異ならず。如かず、日本は隣人の義務として独り其為すべき所を為さんのみ」

 


 と。
 およそ十年ほど以前、福澤諭吉が既に示してくれていた、

 


朝鮮は腐儒の巣窟、上に磊落果断の士人なくして国民は奴隷の境遇に在り、上下共に文明の何物たるを解せざる者のみにして、稀に人物と称する学者あるも、唯能く支那の文字を解するのみにして共に時事を語るに足らず。其国質を概評すれば知字の野蛮国とも名く可きものなれば、其の改革の方法手段を談ずるに、すべて日本の先例を以て標準を定む可らず。我輩の所見を以てすれば、唯日本国の力を以て彼等の開進を促がし、従はざれば之に次ぐに鞭撻を以てして、脅迫教育の主義に依るの外なきを信ずるものなり。力を以て文明を脅迫するとは、外見或は穏ならざるに似たれども、一時の方便にして、他に誘導の道なしとすれば外見の如何を顧るに遑あらず。我本心に愧る所なき限りは断じて行ふ可きのみ」

 


 この方針の正しさを、今更ながらに実感したというわけだ――それこそ骨髄に滲みるまで。

 

 

(昭和初期、慶應義塾大学病院

 


 帰国してさまで間をおかず、明治三十七年七月日露戦争実記 第十九號』に寄せた稿の冒頭あたまにも、

 


「外国にては我日本がにわかに強国になりたりとて恰も瓢箪より駒の出でし不思議の手品の如く思ひ遽かに日本を研究するものあり。さりながら急ごしらえの歴史論、肯綮に中らぬこと多し。
 抑も日本の今ある決して不思議に非ず。大化の昔、隋唐の制度を輸入して律令を定めたる時より日本は唯人真似を以て満足したるに非ず、朝鮮の如き奴隷的模倣者に非ざることは令の文を一読したるものゝ直ちに看取せざるを得ざる所なるべし。何事も外国の真似をしたりと云はれし其時代にさへ、日本人は外国の文物を生呑せずして全く自国流に同化したる迹の著しきあり」

 


 半島旅行の影響が、あからさまに見て取れる。


 原書・現物に触れるのは、やはり大事であるようだ。

 

 

 

 

 


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