明治二十七年十月二十五日、石黒
朝鮮半島へと渡り、戦地各所を巡視して来よとの命である。
翌日、直ちに広島大本営を出立したと記録にあるから、派遣自体は前々から決まっていたことなのだろう。
日清戦争の幕が切って落とされてから、既に三ヶ月が経過している。
黄海海戦の勝利によって制海権は掌握済みだ。安泰そのものな航路をたどって、石黒忠悳は現地入りした。
半島内は半島内で、第一軍の獅子奮迅の活躍により、清軍の影はまったく駆逐済みである。
大本営の重鎮たる石黒を、
今次戦争の野戦衛生長官を、
大日本帝国に軍医制度を整えた、草創期の功労者を送り込むには、確かに適したタイミングであったろう。都合一ヶ月を費やして、石黒忠悳はとっくりと視た。彼個人にも日本国にも、収穫の多い旅程であった。
(Wikipediaより、石黒忠悳)
あたりまえの話だが、同じ景色に直面しても、抱く感想は記者や軍人、医者でそれぞれ差異がある。
片一方に偏した情報を基として突っ走るほど危険な行為も珍しい。見え見えの
…私は、崩御後、明治神宮に参拝し、御遺愛品の中に、美濃紙綴の「孫子」が七冊許り積まれてあるのを拝観して、感激に堪へなかったことがある。黄色の表紙は
そういう意味で、石黒の視点は貴重であろう。
案の定、と言うべきか。
大本営に帰還して報告を終えた石黒に対し、まず真っ先に陛下が発した質問は、
「めしは朝鮮米か、日本米か、それとも支那米か」
いまや鴨緑江を押し渡り、満洲にまで展開した陸軍の食糧事情に他ならなかった。
石黒は、むろん調査している。
「平壌に居ります兵は朝鮮米を食べております。義州に居る兵は朝鮮米と、日本米とを混ぜて食べております」
あるいは何処其処に居る兵は日本米のみを――と。
時折手帖に視線を落とし、地名と記憶を一致させつつ、ハキハキ答える。
ここまでは彼の想定通り。が、
「朝鮮米には砂が沢山混って居ると云うことを聞いておるが、その朝鮮米を食べて居る兵は、歯を痛めるとか、腸胃を壊すとかいうことはないか」
(あっ、それは)
続けざまのこの質問に、石黒忠悳の表情筋は危うく制御を失いかけた。
なるほど確かに朝鮮米には屡々砂が混入している。
半島には刈り取った稲を乾かすに稲架を用いる習慣がなく、あったとしてもほんの一部の狭い地域に限られて、大抵の場合は地面にそのまま投げだす程度の粗雑な措置しか施さぬのがまず一つ。
かてて加えて、脱穀作業もまた同様で、「筵を用いず直接地上に於て刈稲を石又は臼等に打ち付け脱穀せる後僅に天然の風力に依って土砂塵埃を除去し直に之を包装せる」だけであるのがもう一つ。(大正十一年、『中外商業新報』掲載「糧食需給上の安全弁として朝鮮米の真価如何」)
(朝鮮の村落)
要するに精米までのあらゆる過程が原始的な野晒し式であるゆえに、朝鮮米は夾雑物が甚だ多く、品質低劣であったのだ。
まあ、それはいい。
石黒が不思議だったのは、明治大帝がいったい、いつ、どのようにして、そんな知識を身に着けたかということだ。
其の頃は朝鮮と日本との交通が、今日ほど開けて居らぬから、朝鮮の米が我が国に入って来ることは、まだ甚だ少かった。随って朝鮮の米に砂が混って居るといふやうなことは、米穀商とか私共のやうに職務上食物に関係して居る者の外は、知って居る者の殆どない時代である。それに 陛下は何処で御聞きになったのか、
(冬の鴨緑江。氷の切り出しが行われている)
戦場暮らしの兵士にとって、食事の出来は極めて重要な案件である。下手をせずとも、士気の高下に直結し得る。これについては、以前の記事でも少しく触れた。
明治大帝はそのあたりの要諦を、ぬかりなく把握しておられたようだ。『孫子』以下、豊富な読書の賜物だろうか。「英邁」の聞こえも納得である。
この場に於ける石黒も、同じ感慨に打たれただろう。いや、彼の場合は「再認識」と呼んだ方が適切か。
だからといって、情動まかせ、心まかせに打ち震えてもいられない。報告は冷静に行われねば。浮き立つような気持ちを抑えて、彼は答えた。
「朝鮮で飯を炊きますには、内地の如き米磨桶は用ひませず、
前述の「糧食需給上の安全弁として朝鮮米の真価如何」にも、「朝鮮人は飯を炊く際に一々混石を取り除くのであるが之を容易に除去し得る器物をさえ有するから混石を寧ろ普通の事となし」云々との記載が見える。石黒の報告は、ほぼ正確であったろう。
それで陛下も、ひとまず得心なされたらしい。龍顔が微かに上下した。その厳かな情景を、石黒はずっと忘れなかった。
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