所詮私も人畜生。
己に近きを
これまでにも幾度か触れたが私は徳川家康を、日本史上最大最強の英雄として心の底から敬慕している。
だから偶々、読書中、この気分を共有できる人物を紙面の上に見出すと、そいつに対する好意というのがにわかに弾けて、評価自体を二・三段、引き上げずにはいられなくなる。
おや、お前さん話せるねえ、よくわかってるよ大したもんだ、といった具合に。
肩でも組んで褒め称えてやりたくなるのだ。
直近では小泉信三の
『慶應義塾学報』明治四十二年一月号に掲載された小稿からの抜粋だ。
…慎重遠慮万に違算なきを期して事を行ひ、一の事を行ふ時既に次の為すべき事を考慮しつつある徳川家康の如きは、日本人中にありては真に異色とす。余は上下三千歳の日本歴史が「思慮の人」を産する事余りに少なかりしを悲しまずんば非ざるなり。しかも家康の如きも、民衆の同情に関しては、却って理知に於て遥かに劣れる秀吉信長の下に位するの観あり。人は己れの同情する者に依て、反射的に自己を説明す。依て観る、日本人の多くに取て、より多く衝動的なる秀吉信長が却て快きは、即ち日本人の衝動的なる性情を反射して示すものには非ざるか。
(家康直筆の安堵状)
小泉信三がこの世に生まれ落ちたのは明治二十一年五月四日のことというから、この文章を書いたとき、彼は
未だ学生の身空であろう。
(なんということだ)
正直言って戦慄した。二十歳でこんな、これほどの名文を書けるのか。同じ時期、自分はいったいどうだったろう。
(これが才能か)
愚痴まで頭に浮かび始めた。
好ましからぬ傾向だ。
愚痴であろう。思春期の切所で『ヴァルキリープロファイル』に邂逅し、アリューゼの叱咤に浴して以来、私はこの種の慨嘆を愚痴と視るべく意識している。
――天才? そんなの大昔の負け犬が作った言葉だろ。俺とは違う。奴は“特別”だってな。槍を持て。俺たちは一歩ずつ進んでいくしかないんだぜ。
歳月を積み重ねた今も、この言葉の魅力は失せない。
権現様の大金言、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」にもどこかしら通ずるように感ぜられ、むしろいよいよ好ましくさえなったろう。
書いてるうちに、少し気力が回復してきた。
我ながら単純な精神だ。
もののついでにもう
この人の国土に対する認識が凄い。亀鑑とするに相応しい。
一国の領土はその国民のものである。しかし、今日現存の国民のみのものではない。我々はそれを祖先から受けて、子孫に伝える。いわばそれを、日本国民の祖先と子孫とから預かっているようなものである。その得喪の決断は、よくよく慎重でなければならぬ。(中略)現在のような状況の下においていわれなく領土を割譲して、罪を子孫後世に負うことは、いかなる政府も国会議員も、みな必ず恐れるであろう。日本国民として、それは恐れるのが当然であると思う。(『毎日新聞』昭和三十一年八月十二日)
小泉は戦争末期のソ連の行動――中立条約を一方的に反故にして怒涛の如く日本国の北を侵した――を「火事場泥棒」と烈しく批判し、北方領土の占領を「理解の外」と断じてのけた漢であった。
(左から、小泉信三、妻とみ、次女タエ)
彼が平成天皇の教育役を務めたことは、日本にとって幸いだったといっていい。
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