慶応義塾出身の経済学者で、平成天皇、すなわち現在の上皇陛下の教育役にあずかりもしたこの男には、しかしながら奇癖があった。
それは正月三が日の間じゅう、雲隠れをきめ込むという癖である。
だいたい昭和三十年前後からのことであろうか。元日の朝、拝賀を済ますと、小泉はさっそく平服に着替え、愛用しているボストンバッグに寝巻きと一抱えの本をぶち込み、そのまま家族にも行方を告げず、家を飛び出てしまうのだ。
普通に想像するならば、伊豆なり伊賀保なり草津なりの行楽地にて羽を伸ばして、一年の英気を養っているとみるのが妥当だろう。
が、現実の小泉は益体もない。
そも都内から一歩も出ていないのである。自宅からせいぜい車で二十分程度のビジネスホテルに潜伏し、以降まるまる二日というもの、外部との交渉を一切遮断。サザエが蓋をするようにその一室に閉じこもり、ひたすら読書に耽溺するのが実状だった。
――自分がここでこうしていると知る者は、地球上に誰一人として存在しない。
――自分は今、世間から切り離された状態だ。
それを思うと小泉は旅情にも似た解放感が湧くのを覚え、得も言われぬいい気持ちになり、読書がいよいよ捗った。
ルームメイクに来たボーイに対し、今日は終日部屋から出ない、ベッドは自分で作る、部屋も散らかさないから掃除には及ばない、等々の旨を言い含めると、
「ははあ、寝正月ですね」
と、笑いながら去っていってくれたとか。
まんざら悪い試みでもない。責任ある男には、ときに独りの時間が必要だ。
三が日の消化方法以外にも、小泉信三は独創性に満ちた男で。
その特性は、あの惨憺たる大東亜戦争の末期に於いても遺憾なく発動されている。
制空権を奪われて、ほとんど毎日ひっきりなしに焼夷弾が降りそそぎ、都市が軒並み瓦礫の山の化してゆく、地獄の釜の底みたような状況で。――あろうことかこの人物は、日本人はもっと身だしなみに気を遣えと言ったのだ。
戦争の末期であった。空襲は日毎にはげしくなる。安眠できない夜はつづく。食料は不足である。国民の疲労の色は蔽いがたくなった。別してそれを感じたのは、祝儀不祝儀の集まり、殊に葬儀や告別式の光景であった。
一般会葬者で礼服を着て来るものは殆どなくなった。ひげも剃らず、髪はすすけ、よれよれの国民服にだらしなくゲートルを巻いた人々が、気のない焼香をして帰って行く。死んだ人間のことなんぞ考えてはおられないという風があった。
この時期の日本人の、なりもふりも構わないという気持ちには、張りも意地も、恥も外聞もないという無気力に通ずるものがあった。私はそれを忌ま忌ましく思い、少し日本人は身綺麗にして、お洒落になるべきだと人に言った。戦争が苦しければ苦しいほどなおの事、意気地のない風態をして、こんな薄汚いのが日本人かと思われない用意を示すべきだと考えた。(『夕刊中外』昭和二十六年四月二日)
(小泉信三、昭和37年2月)
「正しき容儀は正しき心の現れである。同時にまた、人は容儀を正すことによって、また自から心を正すのである」。
小泉の信念である。
信念に根付いているだけに、その実行には片鱗の迷いも介在しない。たとえ白眼視されようが罵声を浴びせられようが、彼の熱意は少しも翳ることはなく――このあたり、流石慶應義塾の、福澤の衣鉢を継ぐものだとしみじみ感服したくなる。
まさに「闘う学者」の名に相応しい。
岩波文庫版『学問のすゝめ』に解題の稿を添えたのも、やはりこの小泉に他ならなかった。
蓋し納得の人選である。
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