穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

福澤諭吉の戦争始末 ―領土経営の方針如何―


 鎌倉幕府は、頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした。


 が、彼の地にうごめく無数の民を真に屈服させ得たかというと、これは大いに疑問が残る。


 なんとなれば津軽に於いて、「口三郡は鎌倉役でも、奥三郡は無役の地」と呼ばれたように。


 この時代を象徴する土地制度――守護・地頭の導入も、一旦はこれを実施しながら「出羽陸奥に於いてはえぞの地たるによりて」と理由を構え、いそいそと撤回した形跡がある。


 撤回して、変わりに示した方針は、「すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべし」――奥州藤原氏の頃のままやれとのことだった。

 

 

(平泉毛越寺に伝わる舞踊)

 


 事実上の白旗宣言に等しかろう。しかもこの方針を示した相手は、やはり土地の豪族・安東氏。嘘か真か、安倍貞任の子高星の後を自称して、その遠祖はトミノナガスネヒコ――神武天皇東征に於ける最大の敵――の近親、兄たる安日あびなりと唱えている一門である。


 これだけでもう、相当な食わせ者であるのが伝わってくる。まったく油断のならない手合いを、幕府はしかし代官に任じ、蝦夷管領として一帯を鎮撫させねばならなかった。


 これと似たような例として、徳川家康の関東入部が挙げられる。


 福澤諭吉の説くところでは、権現様が江戸に腰を下ろすなり、まず真っ先に発した令は、凡そ八州の地方に五十年来在り来りし事は、其事の善悪利害を問はず其まゝに差置く可しと命じて、以て永年の治安を致したり」とのことだった。


 福澤がこれを書いたのは、明治二十八年四月二十日付けの『時事新報』の上である。

 

 

(在りし日の時事新報社

 


 とき恰も、日清戦争の終局にあたる。


 講和条約――下関条約の調印も済み、国民一般、その内容の公表を、今か今かと待ち望んでいる時節であった。


 遼陽半島、澎湖諸島、そして台湾――遼東半島こそ後の三国干渉で返還を余儀なくしたものの。この戦勝で、日本国には新たな領土が加わった。


 その領土を経営するに、方針策定の手掛かりとして、このような故事を学んでおけと、福澤先生啓蒙のため、筆を動かしたものだろう。

 

 

(青年時代の福澤諭吉

 


 戦争に勝っても、その後の統治よろしきを得ずば何にもならない。


 この原則を、福澤はよく知っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

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