穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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霊威あふるる和歌撰集 ―「神術霊妙秘蔵書」より―

 

 

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

 


 古今和歌集「仮名序」からの抜粋である。


 王朝時代の貴族らは、和歌の効能というものをこんな具合に見積もっていた。


 要するに和歌さえ詠んでおけば、旱天に雨雲を呼ぶことも、また逆に長雨を吹き払うことも可能だし、それどころか愛し女の心を手に入れ、子孫殷昌を楽しむ願いもまた叶う。疫病退散、鬼神調伏、四海安全、天下泰平、なんでもござれ。まこと歌こそ万能である――。


 彼らは一途にそう信じ、日夜せっせと作品づくりに勤しんだ。


 ――斯くもありがたき三十一文字みそひともじと。


 やはり神秘の業を用いて世に様々な利福を齎す陰陽道とが、いつまでも無縁でいられるわけがなく。やがて両者は絡み合い、別ち難く融合してゆくこととなる。


 その実例を、明治四十二年発行、『神術霊妙秘蔵書』に探してみよう。

 

 

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 まずはこれ、「逃走の人足留する秘伝」から。

 

 

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 縦線四本に横線五本、計九本の直線から成る格子のマーク。


 ヒトガタの向かって右側に配置されたこの印は、どう見ても「ドーマン」以外のなにものでもない。


 このヒトガタに向かい、猿田彦大御神に祈念しながら以下の二首を唱えることで、標的の脚はあら不思議、それ以上前に進むことが不可能になり、やがて来る追手の人数になすすべなく捕獲されてしまうという寸法だ。

 

 

くりよせてその行くやらん此里へ
今ぞかへりき伊勢の神垣

西東にしひがし北南きたみなみにも未申ひつじさる
戌亥丑寅辰巳のがさん
 


 また、

 

 

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 このような符を設えて、東西南北四つの○に釘を打ち込むことでも同様の効果が期待できた。


 どちらにしても、年齢と名が必要らしい。


 古人が真実の名をひた隠しに隠したのも頷けよう。

 


 お次はまさに冒頭に掲げた例のまま、「互に思ふ情を通ずる秘伝」

 


 以下に示した通りの札を、その年の恵方を向きながら記すことから術は始まる。

 

 

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「急々如律令という、これまた定番の文句が見えるであろう。


 首尾よく書き上げることが出来たら、今度はそれを枕の下に敷くようにして、毎晩眠りに落ちる前、次の歌を三べんづつ誦するのだ。

 

 

虎と見て石に立つ矢のためしあり
などか思ひの通らさらまじ

 


 なんのことはない、一昔前に流行した「枕の下に好きな人の写真を敷いて眠ると夢の中で逢うことが出来る」というヤツと、所詮同一の筆法である。


 枕とは即ち魂の蔵。蟲師にも確かそんなような話があった。人体の中でいちばん大事な頭部を預けるだけあって、これに関する迷信は根強い。

 


 三つ目は「疝気病全治の呪詛秘伝」

 


 疝気とは下腹部の痛みを総称する漢方用語で、胃炎、胆嚢炎、胆石、腸炎等々が主な原因となっている。


 一連の不調に襲われた際には、

 

 

神かけて心たゆまず引留めん
いかに疝気のすじをひくとも
 


 上の歌が書かれた紙で入念に患部を摩した後、それを枯れたヘチマの中に入れ、陽の昇らざる未明のうちに川に流せば癒えるとされた。


 そのとき、決して背後を振り返らずに、真っ直ぐ家へ帰るのが肝要だという。


 陰陽術というよりも、むしろ神道の気配が強い。

 

 

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 最後に紹介する「虫歯痛全治の禁厭法」は、とりわけ複雑な工程を踏むシロモノである。


 この術はまず、患者の足裏に墨を塗り、紙を踏ませて足形をとるに開始する。


 首尾よくそれが出来たなら、今度は用紙を縦三つ・横三つに折り畳み、その表面にドーマンを書き、痛む歯のある側の手に握らせるのだ。


 更に患者の口をして、

 

 

日の出日の入波留部はるべ由良ゆら々々
 
 
 と唱えさせつつ、右の頬を打ち、左の頬を打ち、また右左右と都合五回も打った後、今度は顔一面に筆で以って○を書く。


 ここまで来て漸く和歌の出番となるのだ。

 

 

うつきには巽の山の谷かつら
本たち切れば葉もかるゝらん

香具山の木の葉を喰ふ虫あらば
皆さし殺せよろづ代の神
 


 これらの歌を吟じさせ、しかしながらまだ終わらない。


 握らせておいた紙を取り出し、竈の近くの柱を選んで釘で打ち付けねばならぬのだ。やがて首尾よく虫歯の痛みが引いたなら、今度はその釘を引き抜いて、問題の紙を小さく丸め、庭の雨垂れが落ちるあたりに埋めてやる。


 その盛土を患者の足で入念に踏み固め置くことにより、やっと術は完成を見る。


 複雑怪奇としかいいようがない。


 しかしながらその複雑さが、却ってありがたがられもしたのだろうか。明治末まで伝えられている以上、実行した者が少なからず在ったのだろう。


 追い詰められれば藁であろうと縋らずにはいられない、人情の哀しさが感得される。

 

 

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