穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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贖罪と逃避の境界 ―あるトラック運転手の死―

 

 事のあらましは単純である。


 子供が轢かれた。


 トラックの車輪と地面との間に挟まれたのだ。


 無事でいられるわけがない。


 搬送された病院で、翌日息を引き取った。


 運転手は、真面目で責任感の強い好漢だった。


 それだけに罪の意識もひとしおだったに違いない。やがて堪えられなくなって、海に身を投げ自殺した。


 場所は、大島沖であったという。

 

 

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 事故発生から自殺までの数日間。運転手がつけていた日記帳が遺されている。


 昭和十二年刊行、島影盟著『死の心境』からその部分を抜粋したい。

 

 

五月三十一日


 今日は何といふ極悪の日だったらう。ペンを持つさへ恐しい。当時の記憶がまざまざと頭に走馬燈の様に浮び出て来る。一層いっそ、菊丸からでも投身自殺でもしようか。そしてせめて保険金で十分の慰藉は出来ぬにしても、出来るだけのことをしてもらはうか。それを想ふとき、父、母、兄、姉、弟と次々にその顔がフィルムのやうに現れる。どんなに悲しまれるだらうか。それよりも、もっともっと悲しまれるのは………あの子の両親は眠った間とてお忘れになる事が出来ぬだらう。あの子のお母さんがいった。「代れるものなら自分で怪我したかった」そしてもう一度、「一層死んでしまってくれるものならなまじ不びんも残るまいに」俺も思った。死なれるものならあまり苦しまず、癒るものならちっとでも跛の程度の少ないやうに。誠をもって罪を償はしてもらうことが、今となってせめてもの義務であり、かつ本意だ。

 


 事故当日。これを書いている時点ではまだ被害者は生きており、生死の境を彷徨っている状態だったのだろう。


 が、天秤はそう時を経ず、「死」の側へと決定的に傾いた。

 

 

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六月二日


 父親はいろいろいふ。俺は穴でもあれば、否、それ所ぢゃない、死んでしまひたい。(午後七時半記)清さんの一本足ぢゃ三途の川や死出のやみ路が越せないだらう。俺はその時は親代わりとなって、共々に、あの話に聞いたり絵に見たりして居た、エデンの園か極楽へ行かう。

 


 亡くなった子供は、清という名前だったようである。
 日記の記述、なお続く。

 


 二日は朝から病院につき切りだ。示談書をもらはんとしてだ。何と誤解してゐるのか、非常に怒ってゐる。てんで話もろくすっぽしてゐない俺を何と誤解してゐるのだい………俺は自動車で轢いたんぢゃないぞ。清さんが後車輪の少し前で極端にいったら飛び込んで来たんだともいへるのだ。もっとも、警部補が来た場合、実地検査の場合、俺は成る可く被害者に有利な様にいってるけれど、ちっとも俺の方に有利な様にいってないぞ。俺は最後にいふ。俺は君の嚇してゐるやうに、検事局に行くのが恐しいのぢゃない。免許証を取り上げられ、失業するのが恐しいのぢゃないぞ。

 


 子供というのは分別がつかぬ。


 分別がつかぬからこそ子供なのだ。


 ほんの一瞬、親が注意を切っただけで、もう突拍子もないことをやらかしている。


 私自身、さんざん覚えのあることだ。


 この事故はどうやら、そんな幼さゆえの特性が、最悪のタイミングで発揮されてしまった結果らしい。


 それを知らずに、知ろうともせずに、外野は加害者を責め立てる。


 運転手にしてみれば、不可抗力だと、あんなものどうやって避ければいいんだと逆上したくなる事態であろう。


 しかし彼はそうしなかった。自制心を総動員して耐え抜いた。


 が、滲み出る口惜しさは隠せない。文脈のはしばしから、明らかにそうした心の機微が見て取れる。

 

 

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六月四日


 あの世の人となってしまってゐるはずだったのに、もう三日も延びた訳だ。今夜こそもう死ぬ。それが一番楽しい。海中に投じてせめて十四貫の身体で魚類の腹を肥さう。

 


 そして彼は、この内容を実施した。


 その行為には多角的な観方が成り立つだろう。あな潔し、日本男児として相応しい責任の取り方だとも、安っぽいヒロイズムに陶酔した果ての愚行、「逃げ」の一種でしかないだろうとも。


 しかしながら、これだけは言える。昨年四月池袋にて無謀な運転をした挙句、母子二人を轢き殺し、他八名に重軽傷を負わせた身でありながら、逮捕されることもなく、娑婆の大気を恥ずかしげもなく呼吸しているどこぞの「上級国民」よりも、このトラックの運転手の方が人間として何兆倍もマシであろう、と。


 読書を通じて、先人に対し申し訳なさを覚えたのは久々だ。

 

 

 

 

 


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