18世紀のイギリスで、その紳士はちょっとした名物男として名を馳せていた。
グローリング卿と呼ばれるその人物を一躍紙上の人としたのは、彼が極端な女嫌いという、その天性の性癖による。
いや、その烈しさは「嫌い」などという微温的な表現で済まされるような域でなく、アレルギーに近しいものすらあったろう。言葉を交わさず、視線を合わせないのは勿論のこと、女性の手によって洗濯された衣服さえこれを身につけようとせず、女の磨いた食器では、何があろうとものを喰わない。ために彼の屋敷の使用人は悉く男性で統一されたとあっては何をかいわんやだ。
「女はサタンの罠」
とか、
「『男―女―悪魔』と並べると、比較の三段階変化ができる」
とか、随分ひどいブラックジョークの蔓延るイギリス男性社会でも、これは極めつけであったろう。グローリング卿ほど極端でなくとも、人はそれぞれ意識の偏り――癖に支配されている。
自覚の有無に拘らず、これは必然として存在するのだ。我が国に伝わる古諺の一つ、
「無くて七癖、有って四十八癖」
は、そのあたりの消息を巧みに表現したものだろう。
我には許せ敷島の道
でもよい。
敷島の道とは和歌のこと。なんだ、坊主のくせに和歌になんぞ凝りやがってとあげつらわれた慈円和尚が、咄嗟に返したものと伝わる。
日本精神病理学の草分け的存在で、「癖」という精神現象を興味深く研究していた式場隆三郎医学博士ご自身も、また顕著な癖の持ち主に他ならなかった。
この人には蒐集癖があったのである。
それも精神科医だけに、蒐める品も一風変わったものだった。なんと彼は、自分の患者が妄想に駆られて滅茶苦茶に書き綴った手紙の類や、わけのわからぬ工作品を喜んで掻き集めていたのである。
「最初は診断や治療に役立てようと思って集めていたが」
と、博士はその著書、『妄談神経』で自白する。
「いつの間にか本来の目的は何処へやら、行為自体に夢中になって、こっちまで偏執狂になってしまった」
あまりにも有名になりすぎた、深淵にまつわるニーチェのあの格言を体現したといってよかろう。
患者を診察する際は懐中や袂の中を探して、何か奇抜なものがないかと漁る。病室にあるノートや手紙をそっと見て、面白さうなものがあると看護婦に貰はせる。患者も大切なので中々呉れない。すると風呂へでも入った時にそっと持って来いと云ひつける。まさにマニアの心理である。(59~60頁)
こんな仕事を仰せつけられる看護婦こそ、いい面の皮であったに相違ない。
斯くて山積されたコレクション。中でも特に博士自慢の逸品は、法科大学の出身で、不幸にも重度の被害妄想に囚われた、とある青年の手紙であった。
彼は現状に少しも納得しておらず、自分がこんな場所に収監されたこと自体なにものかが仕組んだ陰謀なりと信じており、一刻も早い救出を、かつて――まだ彼の脳が正常に機能していた時代――誼を通じた高官相手に要請している。
そこまではいい。
問題は、彼に与えられる金銭があまりに些少で、便箋すら満足な量を購えぬこと。
そのくせ訴えたいことは、後から後から尽きることなく湧き出して、ほとんど無限の観があったということである。
限られた紙数でこの心中を表現しきる方法は、勢い文字を縮小するより他にない。
かくて肉眼では判別不能なほど小さな文字が、隙間なくぎっしり詰め込まれた異様な手紙が完成した。
「一寸離してみると製図をやるあの青い方眼紙の地の色のようだ」
と、式場博士は品評している。
これだけでも患者の執念の凄まじさに目を見張らざるを得ないのに、拡大鏡で覗いてみると、更に驚くべき発見が。
文字が文字としての体裁を失っていないのである。とめ・跳ね・払い、正確で、きちんと文章になっている。
一字も消してないし、誤ってもゐない。丹念に、微細に、縷々として、尽きぬ恐怖と、恨みを述べ、退院を哀願したものである。
彼は法科大学を出てゐるので、さうした術語を無数につかって法官に訴へてゐるのだが、かかる手紙を受け取った人はどんな気がするだらう。彼の目的はそのために、却って阻害されることにならう。(62頁)
本来の宛先でなく博士の手に収まったのは、患者にとってむしろ幸福だったろう。
とかく、精神病者というのは常人では及びもつかないような集中力を往々にして発揮する。
同じく博士のコレクションに、人の毛髪で編まれた草鞋というのがあった。
作ったのは、男の患者。
運動の時間、こっそり女性患者の部屋へ近付き、落ちている髪の毛を拾い集めて編んだという。
「素材」の収集だけでもゆうに年単位は必要だろうに、よくやるものだ。そうまでして作り上げたものだけに、よほどの愛着があるとみえ、博士が頼んでもなかなか手離そうとしなかったものの、最終的に煙草一ヶ月分で話がついた。
「それをはいて、愛する女を追うたりしたら、ギリシャ神話や忍術講談になりさうだ(67頁)」
あるいは、夢野久作の世界と言いかえても良いだろう。
『ドグラ・マグラ』で描かれた、「狂人病院の標本室」の情景は、ある意味ここに実在したのだ。
ついでながら式場隆三郎は文学の方面にも造詣が深く、『文学界』に掲載された太宰治の「虚構の春」を一読し、
これは、大雑誌の巻頭に掲げられてゐるからいいものの、若しノートに鉛筆ででも書かれて私の診察台へ置いてあったら、患者の妄想的手記と間違へるだらう。(104頁)
と、知ってか知らずか、太宰にとっては
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